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嘘つきなキスは、甘口で  作者: 翠緑 顔


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第10話_仮面王子の憂鬱(誠二の過去)

誰もが俺を「完璧な男」だと口を揃えて言う。

仕立てのいいスーツをスマートに着こなし、誰に対しても100点満点の爽やかな笑顔を絶やさず、仕事の成果は常にトップクラス。女性社員からは憧れの眼差しを向けられ、上司からは次期エースとして期待を寄せられる。


――長谷川誠二、29歳。

それが、周囲が俺に求める『完璧な王子様』のスペックだ。


だけど、本性を言わせてもらえば、そんなものは全部クソ喰らえだった。

本当の俺は、口が悪くて、めんどくさがりで、他人に興味なんてこれっぽっちもない、ただの薄情な男だ。

毎日毎日、会社に一歩足を踏み入れた瞬間から、顔の筋肉を固定して愛想笑いを振りまく。他人のどうでもいい世間話に「へぇ、そうなんですか。素敵ですね」と同調してみせる。その度に、心の奥底でどす黒いストレスが澱のように溜まっていくのが分かった。


(だるい。クソだるい。全員消えればいいのに)


そんな悪態を心のなかで吐き捨てながら、俺は毎日、完璧な仮面を被り直して生き極めていた。

そんな生活に、限界が近づいていたのは三年前の夏のことだ。

当時、他部署との合同ビッグプロジェクトのリーダーを任されていた俺は、連日の激務と、上層部の理不尽な仕様変更、長谷川くんなら大丈夫でしょという周囲の無責任な期待によって、精神的にボロボロだった。

その日も、上司から理不尽な説教を笑顔で受け流した後、俺は吐き気すら覚えるほどの嫌悪感に襲われていた。

これ以上、人の目が届く場所にいたら、この仮面が内側からぶち壊れる。

俺は誰にも見つからないように、フロアの最果てにある、普段は誰も使わない非常階段の踊り場へと逃げ込んだ。

重い鉄の扉を閉めると、ひんやりとした静寂が俺を包み込む。

誰もいない。誰も俺を見ていない。

俺は壁にドサリと背中を預けて床に座り込み、きっちり結んでいたネクタイを乱暴に緩めて外した。

セットされた前髪をガシガシと掻きむしり、顔を覆う。


「……あーあ、クソだる。マジで無能な上司ばっかで反吐が出るわ。全員まとめて消え失せろよ……」


口から出たのは、自分でも引くほど低くて汚い、罵詈雑言。

でも、そうやって吐き出さないと、本当に頭がおかしくなりそうだった。

ハァ、と深いため息をつき、頭を壁に打ち付けようとした、その時だった。


「……本当にね。あの上のやり方、効率悪くて無能だわ」

「――っ!?」


頭上から降ってきた凛とした声に、俺の心臓が跳ね上がった。

全身の血の気が一気に引いていくのが分かった。

終わった。誰かに聞かれた。

俺の、入社以来積み上げてきた『完璧な長谷川誠二』の会社人生が、今、この瞬間に完全に終了した。

ギチギチと油の切れた人形のような動作で、俺は恐る恐る階段の上を見上げた。

そこには、一人の女性社員が立っていた。

すっきりとまとめた髪に、隙のないオフィスカジュアル。手には何かの資料を持っている。

確か、他部署――マーケティング部で、二つ下の後輩のなかでもトップクラスに優秀だと噂の、佐藤香織。

彼女は、床に座り込んでネクタイを乱暴に緩め、見たこともないようなドスの利いた声で愚痴をこぼしていた俺を、上からじっと見下ろしていた。

絶望だった。よりによって、噂のしっかり者の後輩に見つかるなんて。

他部署の彼女に「幻滅しました」と冷たく言い放たれるのを覚悟して、俺が身構えた瞬間。


「……ふっ」


佐藤香織は、手に持っていた資料で口元を隠し、おかしそうにフッと笑ったのだ。


「な……何、笑ってんだよ」


最悪の気分になって、つい素の口の悪さのまま睨みつけると、彼女はカツカツとヒールを鳴らして階段を降りてきて、俺の二段上のステップに腰掛けた。


「別に? 完璧王子の長谷川さんでも、そんな顔してクソだる、なんて言うんだと思って、ちょっと親近感が湧いただけです」


彼女の瞳には、幻滅の色なんて微塵もなかった。

それどころか、まるで面白いおもちゃを見つけた子供みたいに、悪戯っぽく輝いている。部署が違う先輩の俺に対しても、物怖じしない大人の余裕すら感じさせる涼しい顔だ。


「いいんじゃないですか? 上司が無能なのは事実だし、ここで吐き出さなきゃやってられないですよね。……お疲れ様です、長谷川さん」


そう言って彼女が鞄から取り出して俺に差し出してきたのは、缶のブラックコーヒーだった。

冷たい缶が、俺の火照った手のひらに触れる。

その瞬間、俺のなかで何かが決定的に音を立てて崩れ、そして、信じられないほどのスピードで新しい何かが組み上がっていくのが分かった。


(この女……ヤバいな)


それ以来、俺は佐藤香織のことを、ただの後輩としてじゃなく、特別な存在として意識し始めた。

完璧な仮面を被り続けなければいけない毎日の中で、彼女の前だけは、少しだけ本当の自分を出してもいいんじゃないかと思えるようになった。


……そして三年後。


俺は自ら希望して、彼女のいるマーケティング部に異動してきた。

理由は簡単だ。

あの階段で見た、佐藤香織の笑顔を、もう一度間近で見たかったから。


(第11話へ続く)

第10話までお読み頂きありがとうございます!

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