第8話_ルール無用のホールドバック
エレベーターのドアが閉まり、長谷川の焦った顔が視界から消えた瞬間、私はその場にへたり込みそうになった。
「……これで、いいのよね」
壁に背中を預け、冷たくなった指先をぎゅっと握りしめる。
本気になったら負けのゲーム。私はもう、あの完璧王子の笑顔の裏にある熱に、これ以上耐えられそうになかった。からかわれて、揺さぶられて、胸を痛めるのはもう終わりにしたい。
オフィスに戻ってからは、ひたすら仕事に没頭した。
幸い、午後はお互いに別々のミーティングやデスクワークで席を外すことが多く、長谷川とまともに顔を合わせる機会はなかった。それが寂しいと思ってしまう自分を、私は必死に否定し続けた。
定時の18時を過ぎ、オフィスの人間が一人、また一人と帰路につく。
時計の針が20時を回った頃、フロアに残っているのは私を含めて数人だけになった。
「佐藤主任、お先に失礼します」
「ええ、お疲れ様。気をつけてね」
最後の後輩を笑顔で見送り、私は小さく息を吐く。ようやく一息つける。
パソコンをシャットダウンし、バッグを持って立ち上がった、その時だった。
「……待てよ」
聞き覚えのある低い声と同時に、私の手首が強い力で掴まれた。
「っ、長谷川さん……!?」
驚いて振り返ると、そこには昼間の完璧な王子様の面影など微塵もない、髪を少し乱した長谷川が立っていた。
息が少し上がっている。私を捕まえるために、慌てて戻ってきたのだろうか。
「離してください。もう誰もいませんけど、こういうのは困ります」
私が冷たく突き放そうとすると、彼は離すどころか、さらに指先に力を込めて私を自分のほうへ引き寄せた。
「離さねぇよ。お前、昼間のあれ、本気で言ってんの?」
長谷川の瞳が、見たこともないほど切実に、そして怒りで揺れている。
「本気です。私、からかわれ続けるのには疲れました。長谷川さんにとってはただの面白い暇つぶしでも、私は――」
「暇つぶしなわけねぇだろ……!」
フロアに、彼の悲痛な叫びが響いた。
誰もいない静かなオフィスで、その声はひどく大きく、そして痛々しく鼓膜を震わせる。
「ゲームだの何だの言い出したのは、そうでもしないとお前に近づけなかったからだよ……!」
長谷川は私の両肩を掴み、逃げられないように真っ直ぐに見つめてきた。
その綺麗な瞳の奥にあるのは、意地悪な笑みなんかじゃない。剥き出しの、泥臭いほどの本心だった。
「裏の顔を見られて焦ったのは本当だ。でも、お前が『クソクライアント』って笑って俺のネクタイ引っ張った時、心臓が止まるかと思った。……他の女子社員に笑顔を振りまいてる時だって、お前がこっちを見てるかそればっかり気にしてた」
「え……?」
「タクシーの時だってそうだ。あんなジジイにお前が触られてるのを見て、理性がぶっ飛んだ。ゲームだから怒ったんじゃない。お前が、俺以外の男に触られてるのが耐えられなかったんだよ……!」
一気に捲し立てる彼の言葉が、私の頭の中に濁流のように流れ込んでくる。
嘘つきな彼が、自分のついた『ゲーム』という最大の嘘を、自らボロボロに引き裂いていく。
「からかってなんかねぇよ……。お前を揺さぶって、余裕なくして、俺の方に引きずり込みたかっただけだ。なのに、お前が『ゲームを降りる』なんて言うから……」
長谷川は私の肩に額を預けるようにして、小さく背中を震わせた。
いつも完璧だった男の、初めて見せる、惨めなほどの敗北の姿。
「頼むから、佐藤さんなんて他人の呼び方に戻るなよ……。香織、お前が先に落ちるか、俺が先に落ちるかってゲームなら……とっくに、俺の完全敗北だよ」
切なく、愛おしそうに紡がれた、初めての呼び捨て。
その甘い毒が、私の心の堤防を、一瞬で跡形もなく押し流していった。
(第9話へ続く)
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