第7話_会議室の境界線
「……試してみる?」
至近距離。長谷川の問いかけに、私の思考は完全にフリーズした。
ここは会社の会議室だ。
すぐ外の廊下を誰かが通りかかるかもしれないし、次の打ち合わせのメンバーがドアを開けて入ってくるかもしれない。そんな危険な場所で、彼は私の顎を指先で固定したまま、まっすぐに私の唇を見つめている。
「長谷川さん……冗談、やめてください。誰か来ます」
「冗談に見える?」
低く、温度のない声。
だけど、彼の指先からは、昨夜のタクシーの密室と同じ熱がしっかりと伝わってきた。
「アクシデントで済ませられるって言ったのはお前だろ。だったら、もう一回やっても何の問題もないはずだよな」
じり、とさらに距離が詰まる。
彼の綺麗な顔が目の前に迫り、私は思わず目を瞑った。
心臓の音がうるさすぎて、外の物音が何も聞こえない。
また、あの甘くて深いキスをされるんだ――そう覚悟した、その時だった。
カチャ。
廊下から、ドアノブに手がかけられる微かな音が響いた。
「っ……!」
ハッと目を開けると同時に、長谷川が素早く私の顎から手を離し、一歩後ろに下がった。
その流れるような、あまりにも自然な引き際に、私の頭が追いつかない。
ガラガラ、と会議室のドアが開く。
「あ、長谷川くん、佐藤主任。まだ残ってたんだ」
入ってきたのは、隣のチームの先輩社員だった。
長谷川は瞬時にいつもの爽やかな『完璧王子』の顔を作り、何食わぬ顔で先輩に微笑みかける。
「あ、お疲れ様です! ちょうどホワイトボードの片付けが終わったところです。ここ、もう使われますか?」
「うん、14時から使うんだ。ありがとう」
「いえいえ。じゃあ、僕たちはこれで。佐藤さん、行きましょうか」
「……ええ」
何事もなかったかのように、爽やかに私を促す長谷川。
私はまだ心臓がバクバクと暴れているというのに、この男の変わり身の早さは何なのだろう。悔しいけれど、彼の完璧なポーカーフェイスには完敗だった。
***
会議室を出て、エレベーターホールに向かうまでの短い廊下。
周囲に他の社員がいないことを確認した瞬間、歩くペースを落とした長谷川が、前を向いたままポツリと呟いた。
「……あーあ、邪魔が入った」
「長谷川さん……!」
私が声を潜めて睨みつけると、彼はフッと意地の悪い『裏の笑み』を浮かべてこちらを振り返った。
「何? そんなに睨むなって。……もしかして、キスされると思って期待してた?」
「なっ……! してません!」
「嘘つけ。思いっきり目瞑って、待ってたじゃん」
楽しそうにクスクスと笑う長谷川。その態度が、私を揺さぶるためのいつもの意地悪なのだと分かって、急に冷や水を浴びせられたような気持ちになった。
(やっぱり、全部からかわれてるだけなんだ……)
昨夜のあの熱いキスも、今日の会議室での挑発も、全部私のポーカーフェイスを崩して楽しむための『嘘つきなゲーム』の延長線。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
「……長谷川さんにとっては、全部面白いゲームなんですね」
「え?」
私の声が少し震えていたからだろうか。長谷川の笑みが、ピタリと止まった。
「私はもう、このゲーム降ります。これ以上、仕事に支障が出るような真似は困りますから」
エレベーターが到着し、ピン、と高い音が響く。
私は長谷川の返事を待たずに、開いたドアの中へと足を踏み入れた。
乗り込もうとした長谷川を制するように、私は冷たい視線を向ける。
「次からは、みんなの前と同じ『佐藤さん』として接してください。……お疲れ様でした、長谷川さん」
閉まるボタンを押し、閉まっていくドアの隙間から、私は長谷川の顔を見た。
いつもならスマートに微笑み返すはずの彼が、今までに見たこともないような、ひどく焦った顔で私を見つめていた。
(第8話へ続く)
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