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嘘つきなキスは、甘口で  作者: 終焉泡沫


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5/8

第5話_その嘘、甘すぎる

タクシーの座席に押し付けられたまま、私は息をすることさえ忘れていた。

窓の外を流れていく街灯の光が、交互に彼の顔を照らし、影を作る。

至近距離で見つめる長谷川誠二の瞳は、昼間の爽やかな『王子様』のそれとは正反対の、暗く、熱い欲望を孕んでいた。


「……何よ、その顔。長谷川さんらしくない」


震える声を必死に抑えて、私は精一杯の虚勢を張る。

掴まれた手首から伝わる彼の鼓動が、驚くほど速い。それは、私自身の高鳴りなのか、それとも彼自身の焦りなのか、判別がつかなかった。


「らしくない? ……お前にそんなこと言われる筋合いねぇよ」


長谷川は、私の頬に触れていた指先を滑らせ、ゆっくりと私の顎を掬い上げた。

逃げ場を塞ぐように、彼の顔がさらに近づく。


「佐藤主任……いや、香織さん。あんた、さっき店で五十嵐に腰触られてた時、どんな気分だった?」

「……仕事だって、言ったでしょ」

「俺は、殺してやりたいくらい不快だった」


低く、響くような声。

彼は私の唇をなぞるように視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。


「これもお前の言う『ゲーム』の一部だと思ってんのか? ……だったら、お前の負けだよ。俺はもう、全然楽しくねぇんだわ」

「え……」

「これ以上俺を苛つかせるなら……口封じの条件、変えるぞ」


次の瞬間、彼の顔が影になった。

重なる。

触れるだけの、優しいキス――ではない。

奪い去るような、深く、熱く、それでいて泣きたくなるほど甘いキス。

頭の中が真っ白になる。

お酒の匂いと、彼の熱。


「本気になったら負け」


そんな自分たちで決めたルールが、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。

嘘つきな彼が、嘘をつけなくなった瞬間に流し込んできた、あまりにも甘口な毒。

私の手腕を掴んでいた彼の力が、いつの間にか緩んでいた。

代わりに、彼の大きな手が私の後頭部を優しく包み込み、引き寄せられる。

抗わなければいけないのに。これが『嘘』だと笑い飛ばさなければいけないのに。

私の腕は、気づけば彼の首に回っていた。


「……ん、……っ」


どれくらいの時間が経ったのか。

タクシーが私のマンションの前でゆっくりと止まった振動で、私たちは弾かれたように唇を離した。

気まずい沈黙。

運転手が「到着しました」と事務的に告げる声だけが、現実を引き戻す。

長谷川はバツが悪そうに視線を逸らし、乱れたネクタイを雑に直した。

さっきまでの獣のような気配を隠すように、彼は深く、長く息を吐き出す。


「……降りろ。着いたぞ」

「あ……ええ。お疲れ様でした」


私は逃げるようにタクシーを降りた。

冷たい夜風が火照った顔に刺さるけれど、心臓の音は一向に静まってくれない。

ドアが閉まる直前。

長谷川が窓を開けて、私を呼び止めた。


「香織さん」


振り返ると、そこにはいつもの『王子様』の仮面を中途半端に被り直した、ひどく複雑な表情の長谷川誠二がいた。


「……今の、忘れるなよ」

「え?」

「全部が嘘だなんて、思わせないからな」


それだけ言い残して、タクシーは夜の闇に消えていった。

見送った後、私は自分の唇をそっと指でなぞる。

ゲームオーバー。

いや、これはきっと、新しいゲームの始まりだ。


「……あんなの、反則じゃない……」


完璧な王子様の、剥き出しの独占欲。

そして、その奥に潜んでいた、本当の『甘さ』。

私は、自分が思っていたよりもずっと深く、彼が仕掛けた底なしの沼に足を踏み入れてしまったらしい。


(第6話へ続く)

第5話までお読み頂きありがとうございます!

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