第5話_その嘘、甘すぎる
タクシーの座席に押し付けられたまま、私は息をすることさえ忘れていた。
窓の外を流れていく街灯の光が、交互に彼の顔を照らし、影を作る。
至近距離で見つめる長谷川誠二の瞳は、昼間の爽やかな『王子様』のそれとは正反対の、暗く、熱い欲望を孕んでいた。
「……何よ、その顔。長谷川さんらしくない」
震える声を必死に抑えて、私は精一杯の虚勢を張る。
掴まれた手首から伝わる彼の鼓動が、驚くほど速い。それは、私自身の高鳴りなのか、それとも彼自身の焦りなのか、判別がつかなかった。
「らしくない? ……お前にそんなこと言われる筋合いねぇよ」
長谷川は、私の頬に触れていた指先を滑らせ、ゆっくりと私の顎を掬い上げた。
逃げ場を塞ぐように、彼の顔がさらに近づく。
「佐藤主任……いや、香織さん。あんた、さっき店で五十嵐に腰触られてた時、どんな気分だった?」
「……仕事だって、言ったでしょ」
「俺は、殺してやりたいくらい不快だった」
低く、響くような声。
彼は私の唇をなぞるように視線を落とし、自嘲気味に口角を上げた。
「これもお前の言う『ゲーム』の一部だと思ってんのか? ……だったら、お前の負けだよ。俺はもう、全然楽しくねぇんだわ」
「え……」
「これ以上俺を苛つかせるなら……口封じの条件、変えるぞ」
次の瞬間、彼の顔が影になった。
重なる。
触れるだけの、優しいキス――ではない。
奪い去るような、深く、熱く、それでいて泣きたくなるほど甘いキス。
頭の中が真っ白になる。
お酒の匂いと、彼の熱。
「本気になったら負け」
そんな自分たちで決めたルールが、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
嘘つきな彼が、嘘をつけなくなった瞬間に流し込んできた、あまりにも甘口な毒。
私の手腕を掴んでいた彼の力が、いつの間にか緩んでいた。
代わりに、彼の大きな手が私の後頭部を優しく包み込み、引き寄せられる。
抗わなければいけないのに。これが『嘘』だと笑い飛ばさなければいけないのに。
私の腕は、気づけば彼の首に回っていた。
「……ん、……っ」
どれくらいの時間が経ったのか。
タクシーが私のマンションの前でゆっくりと止まった振動で、私たちは弾かれたように唇を離した。
気まずい沈黙。
運転手が「到着しました」と事務的に告げる声だけが、現実を引き戻す。
長谷川はバツが悪そうに視線を逸らし、乱れたネクタイを雑に直した。
さっきまでの獣のような気配を隠すように、彼は深く、長く息を吐き出す。
「……降りろ。着いたぞ」
「あ……ええ。お疲れ様でした」
私は逃げるようにタクシーを降りた。
冷たい夜風が火照った顔に刺さるけれど、心臓の音は一向に静まってくれない。
ドアが閉まる直前。
長谷川が窓を開けて、私を呼び止めた。
「香織さん」
振り返ると、そこにはいつもの『王子様』の仮面を中途半端に被り直した、ひどく複雑な表情の長谷川誠二がいた。
「……今の、忘れるなよ」
「え?」
「全部が嘘だなんて、思わせないからな」
それだけ言い残して、タクシーは夜の闇に消えていった。
見送った後、私は自分の唇をそっと指でなぞる。
ゲームオーバー。
いや、これはきっと、新しいゲームの始まりだ。
「……あんなの、反則じゃない……」
完璧な王子様の、剥き出しの独占欲。
そして、その奥に潜んでいた、本当の『甘さ』。
私は、自分が思っていたよりもずっと深く、彼が仕掛けた底なしの沼に足を踏み入れてしまったらしい。
(第6話へ続く)
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