第3話_月曜日のポーカーフェイス
週末の二日間、私は完全に『長谷川誠二』という男に脳内をジャックされていた。
目を閉じれば、デスクの上に組み伏せられた時の、あの冷徹で色気のある瞳がフラッシュバックする。手首に残った掴まれた感触が、どうやっても消えてくれない。
(……いや、忘れなさい私! 完全にハッタリを見抜かれて遊ばれただけじゃない!)
月曜日の朝。
私はいつものように完璧なメイクを施し、お気に入りのヒールを鳴らしてオフィスへと出社した。
鏡の前で「佐藤香織、27歳。今日もデキる女」と自己暗示をかけ、平静を装って自分のデスクにつく。
大丈夫、仕事が始まればいつも通りの私に戻れる。
「皆さん、おはようございます! 今週もよろしくお願いします!」
「……っ」
フロアの入り口から、鈴を転がすような、爽やか極まりない声が響いた。
長谷川誠二だ。
きっちりと整えられた前髪、仕立ての良いスーツ。顔には、世界を平和にしそうなほどの『完璧王子の100点満点の笑顔』が張り付いている。
金曜日の夜の、あの口の悪い肉食獣と同じ男だとは、誰も思うまい。
長谷川は女性社員たちに笑顔を振りまきながら、まっすぐ私のデスクへと歩いてきた。
私の心臓が、一気にギアを上げてドクドクと暴れ始める。ポーカーフェイス、ポーカーフェイスよ、私……!
「佐藤主任、おはようございます。先週の金曜日は遅くまでお疲れ様でした。これ、新プロジェクトの修正版データです」
「あ……ええ、おはようございます、長谷川さん。わざわざありがとうございます」
長谷川は、至って事務的に書類の束を私のデスクに置いた。
その態度には、週末の余韻も、からかうような色も一切ない。あまりにも完璧な同僚としての振る舞い。
(なーんだ。ちょっと構えて損しちゃった……)
ホッと胸をなでおろした、その瞬間だった。
書類を手渡す際、長谷川の指先が、私の指にすっと触れた。
ただの偶然ではない。這わせるような、あからさまな熱。
驚いて顔を上げると、長谷川は背を向け、自分の席へと戻ろうとしているところだった。
だが、すれ違いざま。
彼が私にだけ見える角度で、ふっと意地の悪い『裏の笑み』を浮かべたのを、私は見逃さなかった。
さらに、デスクに置かれた書類のメモ欄。
そこには、スマートな文字でこう書き残されていた。
『今日のランチ、いつもの12時から15分ずらして。
地下の休憩室で待ってる。香織さん。』
「……っ、この男……!」
心臓が跳ね上がる。
オフィスの一角で、私だけが彼の仕掛けた罠に足元をすくわれていた。
「佐藤主任」と呼びながら、メモでは「香織さん」。このギャップは、心臓に悪すぎる。
***
12時15分。
お弁当を持って地下の備品・休憩室へ向かうと、薄暗い部屋の長椅子に、すでに長谷川が座っていた。
彼は私が入ってきたことに気づくと、スマホから目を離し、いつもの気だるげな表情を隠そうともせずに足を組んだ。
「遅い。待ちくたびれたんだけど」
「15分ずらせって言ったのはそっちでしょう。……それにしても、社内でこんな呼び出し方、心臓に悪いからやめてください」
私が文句を言いながら対面の席に座ると、長谷川はフッと鼻で笑った。
「何言ってんの。誰もいない場所で話すのが『口封じの交渉条件』だろ? それとも何? 他の社員の前で、俺の本性の話をしたいわけ?」
「それは……しない、って約束しましたけど」
「じゃあいいじゃん」
長谷川は、持参していたサンドイッチの袋をガサガサと開けながら、じっと私の顔を見てきた。
「それにさぁ。今日の朝、俺が他の女子社員と話してる時、お前、めちゃくちゃ睨んでたろ」
「は!? 睨んでなんか、いません!」
「嘘つけ。目が『あのビジネス笑顔、殴りたい』って言ってたぞ」
「それは……!」
図星だった。
あの完璧な王子様の仮面が自分以外にも向けられていることに、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、イラッとしてしまったのだ。
「……別に。長谷川さんの裏の顔を知ってるのは、私だけでいいって思っただけです。その方が、ゲームとして有利ですから」
負け惜しみでそう言うと、長谷川のサンドイッチを持つ手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと私を見つめ、その綺麗な瞳の奥に、怪しげな独占欲の光を灯す。
「ふーん……。自分だけでいい、ねぇ」
長谷川は立ち上がると、狭い休憩室のテーブルを挟んで、私の顔にぐっと近づいてきた。
金曜日の夜の熱が、一気に蘇る。
「お前さ、そういう言葉が男をどういう気にさせるか、分かってて言ってんの?」
「え……」
「本気になったら負けのゲーム。……お前の方から先に、落ちてきそうだけど?」
耳元で囁かれた低音に、私の身体が微かに震える。
お互いに本音を隠した、大人の化かし合い。だけど、彼のその表情は、どこまでが『嘘』で、どこからが『本気』なのか――私には、もう分からなくなっていた。
ランチが終わって席を立つとき、長谷川は静かに、でもはっきりと言った。
「……夜、時間あるか? 少し話したいことがある」
私は答えられなかった。ただ、頷いてしまった。
***
その夜 BAR「Amber」
21時を少し回った頃、私はBARのカウンターに座っていた。
看板もない、路地裏の小さな店。照明は落とされていて、グラスを置く音だけが静かに響く。
長谷川はすでに端の席に座っていた。
スーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖を少し捲って。いつもの完璧な王子様の姿とは少し違う、くつろいだ佇まい。
「遅い」
私が隣に座ると、彼はグラスを傾けながら、こちらを見もせずにそう言った。
「誘ったのはそっちでしょう」
「まあな」
バーテンダーが無言でカクテルを置いていく。甘めの、でもしっかりアルコールが効いたやつ。
沈黙が少し続いたあと、彼がようやくこちらを向いた。
「……ランチのあと、ずっと気になってた」
「気になってたって?」
「『自分だけでいい』って言ったときのお前の顔」
私はグラスを手に取って、視線を逸らした。
「ゲームの有利を取るためだと言ったはずです」
「嘘つけ」
低く、でも優しい声で返されて、胸の奥がざわついた。
長谷川はグラスを置くと、ゆっくりとこちらに体を傾けてきた。カウンター越しに、ほんの少しの距離。
「お前さ。俺の前ではあんなに強気で、でも他の女に俺が笑顔向けてるのを見ると、睨むんだろ?」
「……それは」
「可愛いよ、そういうところ」
指先が、カウンターの上に置いた私の手に、そっと触れた。
熱い。ランチのときより、明らかに意図的で、逃げられない。
「香織さん」
BARの中で、彼が私の名前を呼んだ。
オフィスのときとは違う、もっと低い、もっと甘い響き。
「このゲーム……もう少し続けてもいいか?」
私はグラスを置く手に力を込めた。
(本気で聞かないでよ…)
答えられない。答えれば、絶対に彼に飲み込まれる気がした。
長谷川は私の沈黙を愉しむように、薄く笑った。
「答えなくていいよ。ただ、俺はもう……お前と二人きりになる夜が、こんなに欲しくなってるってことだけは、知っておいてほしい」
彼の指が、私の指の間をすっとすり抜ける。
「次は、もっと遅くまで……いいか?」
私はどうしても、頷いてしまいそうになった。
(第4話へ続く)
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