第2話_お前、誰に向かって言ってるの?
「私を楽しませてくれたら、ね。長谷川さん?」
至近距離。唇が触れそうなほどの暗がりで、私は彼のネクタイを握ったまま、大人の余裕を崩さずに微笑みかけた。
いつもなら、どんな無茶振りにもスマートに微笑んでみせる『完璧王子』だ。
私のこの突拍子もない提案にも、きっと戸惑うか、あるいは話を逸らして逃げるに違いない。
そう思っていた。
けれど、彼は逃げなかった。
「……は」
長谷川の喉の奥から、低く、乾いた笑い声が漏れた。
次の瞬間。
私の手首が、冷たい手によってガシッと掴まれる。
「っ!?」
驚く暇もなく、強引に手首を引かれ、彼のネクタイから私の手が引き剥がされた。そのまま、私の両手首がデスクの上に組み伏せられる。
「あ……」
形勢逆転。
逃げ場を塞ぐように、長谷川の身体がさらに私へと覆いかぶさってきた。
昼間の爽やかなシトラスの香りの奥から、熱い体温と、男の匂いが立ち上る。
「佐藤さんさぁ。ちょっと仕事ができるからって、男を舐めすぎ」
彼の目が、すっと細められた。
そこにあるのは、社内の誰も見たことがない、冷徹で、だけど恐ろしく色気のある肉食獣の目だ。
「俺を楽しませろ、だっけ? 面白いじゃん。……じゃあ、まずはその生意気な口、利けなくしてやろうか?」
長谷川が顔を近づけてくる。
本当に、キスをされる。
そう直感した瞬間、私の心臓が、ドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
(……本気、だ)
3年前の階段で見た苛立ちが、今、この男の瞳の奥で確かに息づいている。
私が仕掛けたゲームが、予想以上に早く、本気の領域に踏み込んでしまった。
さすがに焦りが生じて、身体が強張る。
そんな私の動揺を、長谷川は見逃さなかった。
唇が触れる寸前。
彼はピタリと動きを止めると、フッと意地の悪い笑みを浮かべて、私の両手首を解放した。
「なーんだ。デキる大人の女のフリして、ただのハッタリかよ」
彼はポケットに手を突っ込み、すっと身体を離す。
前髪を乱暴にかき上げながら、いつもの、だけど少しトーンの低い声で言った。
「ビビってんじゃん。可愛いところあんね」
「っ……ビビってなんか、ありません!」
悔しくて、私はすぐに立ち上がり、デスクを挟んで彼を睨みつけた。
心臓がまだうるさいくらいに波打っている。完全に、一枚上手を取られた。悔しい。めちゃくちゃに悔しい。
「じゃあ、なんで顔赤いわけ?」
長谷川はニヤニヤしながら、私の顔を覗き込んできた。
完全に、私の負けだ。
「……長谷川さんって、本当に性格悪いですね」
私が冷たく言い放つと、彼は「最高の褒め言葉」とでも言うように、肩をすくめた。
「お互い様だろ。そっちだって、俺の裏の顔をダシに、楽しもうとしたんだから。……まぁ、いいよ」
長谷川は自分のデスクに戻ると、荷物をまとめて鞄を肩にかけた。
「口封じの件、交渉成立。お前が俺の秘密を守る。その代わり、俺もお前を『退屈させない』。……これでいいな、香織さん?」
「え……」
初めて呼ばれた、下の名前。
動揺する私を置いて、長谷川はいつの間にか、いつもの『完璧王子』の、爽やかで非の打ち所がない笑顔に戻っていた。
「じゃあ、お疲れ様。夜道、気をつけて帰りなよ?」
そう言い残して、彼は軽やかな足取りでオフィスを出て行った。
一人残されたフロアで、私は熱を持ったままの手首をそっと抑える。
(香織さん、って……なによそれ……)
本性を隠して完璧を演じたい男。
そして、その裏を暴いてやりたい私。
どうやら、私が思っていた以上に、この『嘘つきなゲーム』は、危険で、甘い罠に満ちているらしい。
「本気になったら負け、なんだから……」
私は自分に言い聞かせるように、誰もいないオフィスで小さく呟いた。
(第3話へ続く)
第2話までお読み頂きありがとうございます!
もし宜しかったらブックマーク、評価など励みになりますのでよろしくお願い致します!




