最終話、メイフラワーを探して……
「メイフラワー」とは、ここではバラ科のサンザシではなく、ツツジ科イワナシ属の植物の花を指します。
夜行列車と船を乗り継ぎ、ハワード卿がモリーを連れて来たのは、北部連邦東部に浮かぶ島、アヴィグウェイト島にある別荘だった。
早朝。まだ眠っているモリーを起こさないよう、ハワード卿は静かに身支度を整えた。
この島に来たならば是非、彼女に贈りたいものがあったのだ。
寝室から出る間際、彼はモリーの顔を見たくなって、再び寝台の近くに戻った。
彼女の眠っている顔は、まるで開く直前の花の蕾ようで、いつまでも見ていたくなる。
十数年想い続けた、最愛の人。ようやく手に入れた、彼の宝物。これからずっと、大切に守って、喜ばせて、幸せにしたいと思う、ただ一人の相手。
あまりの愛しさに、少しだけ彼女の滑らかな頬に触れたくなって、彼は手を伸ばした。
しかし、触れる前に彼の手は止まってしまった。
モリーが目を覚ましてしまったのだ。
「……ハワード、どこかに、出掛けるの?」
モリーはハワード卿が緑のマフラーを巻いていることに気付いたのだろう、心細げに彼を見上げた。
「外に行くのなら、私も……」
しなやかで白い指が、ハワード卿のコートの袖をそっと引いた。
* *
「一人でメイフラワーを探しに行こうと思っていたの?」
手早く、しかしすっかり支度を整えたモリーは、少しむくれたようにそう言いながら、右手に、ラズベリージャムとバターをたっぷり挟んだサンドイッチの入った籠を持ち、左手はハワード卿の右手と繋いだ。自分の指とハワード卿の指を絡め合わせて、しっかりと。
「……モリー?」
ハワード卿は、その大胆な手の繋ぎ方に少し驚いたものの、すぐに、これも悪くないな、と思った。モリーの手の温かさをより感じられる気がして。
モリーは悪戯が成功した時の子どものように微笑んだ。
「前に、こういう手の繋ぎ方をしているご夫婦を見かけて以来、憧れていたの。私もハワードと結婚したら、こういうふうに手を繋いで歩きたいな、って」
ハワード卿も微笑んだ。彼の初々しい妻は、何と可愛らしいことを言うのだろう。
「さぁ、行きましょうか。素敵な宝物を貴方が持って帰って来るのを一人で待っているよりも、二人で一緒に探す方が、ずっと素敵だもの」
* *
モリーの言った通りだな、とハワード卿は思った。
薄紅色のメイフラワーを見つけるたび、顔を輝かせるモリー。花を探すのに夢中になり過ぎて、転びそうになるモリー。ピクニックブランケットの上、朝食代わりに持って来たサンドイッチのラズベリージャムをパンから溢れさせて、小さく悲鳴を上げるモリー。
きっと、一人でメイフラワーを探しに来ていたら、これほど可愛い妻の様子を独り占めすることは出来なかっただろう。
ハワード卿が、モリーの服の上に零れてしまったラズベリージャムを拭き取り、携帯焜炉で淹れた紅茶を差し出すと、モリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ハワード」
ずっと自分だけに向けてほしいと思っていた、その表情。もう、何があっても絶対に彼女を手放せない、と彼は思った。
「……モリー、相談があるんだ」
彼は、ゆっくりと切り出した。
「薔薇荘には、義父上も帰っていらしたことだし、休暇の時だけ私が君の待つ薔薇荘に帰るというのも寂しい。だから、普段はアーケイディアで暮らして、休暇に二人で薔薇荘に帰るというのはどうだろう。勿論、義父上にも相談しなければならないし、アーケイディアで暮らす家も探さなければならないが」
モリーは、くすっと笑った。
「ヒルダ伯母さんがね、オシアン伯父上のお家で暮らすことにしたから、代わりにフォスター家の屋敷で暮らす人を探しているんですって。あそこなら、造りもしっかりしているし、元は聖騎士団長だったお祖父様が建てた屋敷だから、聖騎士団本部にも近いわ。……どうかしら?」
ハワード卿は思わず、それは好条件だと言いかけて、ふと思った。
「……そのまま、オシアン伯父上が、ヒルダ伯母上を王城に閉じ込めてしまわれる心配はないのだろうか?」
彼の心配はもっともだった。あの二人の近くにいる者なら皆知っているのだ。猫型妖精の王たるオシアンが、三十数年前にヒルダと出会って以来ずっと、彼女を自分の城の奥深くに閉じ込めて思い切り溺愛したいという願望を持っていることを。
ハワード卿もこの十数年、モリーを独占したいと思い続けてきたので、オシアンの気持ちは分からなくもない。しかし、だからといってそれを実行に移されると、とても困る。もし大好きな伯母に会えなくなったら、モリーが泣くのは確実なのだ。
モリーはハワード卿の心配も予想していたのだろう、ふふっと笑った。
「大丈夫、ドミニク・トーマス筆頭顧問とエズメ先生の推挙で、オシアン伯父上はアーケイディア単科大学の特任教授として、ヒルダ伯母さんはアーケイディア単科大学の実技教官として、二人でそれぞれ週五日の講義を行うと契約なさったそうだから」
それなら、そちらはひとまず安心か、とハワードは思った。妖精というものは欲望に忠実な存在ではあるが、高位であればあるほど、人と交わした約束を破ることは出来ないのだから。
「しかし、義父上が、薔薇荘でお一人になってしまう訳だが……」
モリーの父親フレッドは、邪悪な女の企みによって二十年も娘と引き離され、ついこの前帰って来たばかりだ。もしかしたら、しばらくは娘と二人で暮らしたいと思っているのではないかと気遣ったのだが。
「父は『夫婦が一緒にいられる時は、一緒にいなさい』と言ってくれたの。『お父さんは、お母さんとあまり一緒にいられなかったことを後悔しているから』って」
それを、そのままの意味で受け取って良いものか判断出来なかったハワード卿は、一度、薔薇荘に戻って三人でよく話し合わねば、と思った。
* *
結論を言えば、モリーはハワード卿とアーケイディアのフォスター屋敷で暮らし、ハワード卿の休暇に、二人でスカーレットウッズの薔薇荘に帰ることになった。
ハワード卿とモリーは、フレッドの部屋をフォスター屋敷にも用意すると言ったのだが、それはフレッド本人から丁重に断られた。フレッド曰く、あの屋敷の玄関の前に立つと思っただけで動悸が酷くなるから、と。
その昔、モリーの母親リディアとの結婚の許しを得ようとフォスター家の屋敷を訪ねて、抜き身の剣を持ったモリーの祖父ニコラス・フォスター卿に、それは恐ろしい形相で追いかけ回されたのだという。
「俺がハワード卿のように強かったら、お義父さんもすぐに認めてくださったんだろうけどな」
モリーはくすくすと笑った。
「お父さんは、剣技や拳闘じゃなくて、泳ぎでフォスターのお祖父様に勝負を挑めば良かったのに。ヒルダ伯母さんが仰っていたもの、フォスターのお祖父様はカナヅチだったって」
「そうか、その手があったな……」
水妖の末裔だけあって、若い頃は炎龍湾のレグザゴーヌ西岸から連合帝国南東の岸まで泳ぎ切ったこともあるというフレッドは、少し寂しそうに笑った。
* *
休暇の明ける前日。アーケイディアの駅に降り立ったハワード卿の手を、隣りのモリーが指を絡めるように繋いで微笑んだ。
「ハワード、約束して。これからも『メイフラワーは二人で探しに行く』って」
ハワード卿には、モリーの言いたいことが解った。
「そうだな、今回の旅行でよく解った。君に相談もせずに一人で行動すると、せっかくの宝物を逃してしまうのだと」
彼が独りよがりな行動を取ってしまえば、肝心のモリーの心は、きっと彼から離れてしまうだろうから。
「約束する。『メイフラワー』は二人で探そう」
モリーの父フレッドは、私たちの世界で言えば、ドーバー海峡くらいは余裕で泳いで渡れるので、やはりタダモノではありません。しかも金髪碧眼の美丈夫……。
二人がフォスター屋敷に引っ越す前の日。
オシアン「済まないが、熟成の関係で、すぐには運び出せない食材を食料庫に置いて行くので、そのままにしておいてほしい」
ハワード「分かりました」
ヒルダ「……ハワード、ヴィーナス、先に言っとく。もし食料庫で何を見ても、腰を抜かさないように」
……その食材は後日、ベッキーの屋敷で行われた「藤の花を愛でる会」で、コテージパイになりました。
モリー「……知りませんでした、レビアタンって、牛肉の味がするんですね」
オシアン「鉄分が多いので、貧血になりやすいヒルダにはうってつけの食材なのだよ(得意げ)」
この世界のレビアタンはクジラに近い怪獣です。




