55、花嫁のブーケと花婿のケーキ
時は、ハワード卿とモリーの結婚式の最中に戻る。
祝いに駆けつけた人々は、肉料理と魚料理、そしてケーキとワインでもてなされ、慣例となっている新郎新婦のダンスのぴったりと息が合った様子に歓声を上げ、花嫁介添人たちと花婿介添人たちが奏でる楽器に合わせて歌い踊り、楽しい時間を過ごした。もはや誰も、「ワインの飲み過ぎ」で退出した老婦人のことなど覚えてもいなかった。
「ローストビーフも、鱒のパイ包みも、とても美味しかった」
ベッキーがそう言うと、マープル嬢が喜んだ。
「ご満足頂けて嬉しいですわ。本日の料理の配達は、我がマープル家が経営するホテルの、初めての試みなのですもの。今日のような大人数の招待客が集まるような結婚式では、招待客をもてなす為の料理を用意するだけでも一苦労ですからね。それでもウェディングケーキと、『花婿のケーキ』は新婦の手作りなのですから、改めて恐れ入ってしまいますけれども」
モリーが得意なケーキということで、どちらも「女帝陛下のケーキ」になってしまったのは御愛嬌だが、一応、ウェディングケーキの方はアプリコットジャムと薔薇のジャムをたっぷり挟み、「花婿のケーキ」の方はラズベリーと薔薇のジャムをたっぷり挟むことで違いを持たせてはあった。
「それにしても、私は『花婿のケーキ』というものがあるということを、今回初めて知りましたわ」
マープル嬢の言葉を聞き、エズメが微笑みながら説明した。
「花嫁介添人を務めている内で最年長の、ダイアナの故郷の慣習なのだと聞いていますよ。花婿の好きなケーキを用意して、式の終わりに招待客に配るのだとか。持ち帰って枕元に置いて寝ると、結ばれる運命の相手を夢に見るという話もあるそうですわ」
「まぁ。何だか試してみたくなりますわね」
マープル嬢が頬を薄紅色に染めて微笑んだ。
その時、花婿介添人たちの声が響いた。
「花嫁がブーケを投げますよ。次の花嫁になりたい方は、どうぞこちらへ」
「あら、それは是非行かなくては」
エズメは立ち上がり、ローラを見た。
「勿論、貴女も来るでしょう?」
ローラは静かに微笑んで首を振った。ベッキーは、一切れ余ってしまったウェディングケーキを食べ始めた。マープル嬢も、バッグから編みかけのショールを出して編み始めた。
エズメは苦笑したが、ブーケトスに参加しないという選択肢は、彼女にはなかった。
「……行けば良かったのに」
ベッキーは独身女性たちが群がっている辺りを目で示しながら、ローラにそう言ったが、ローラは首を振った。
「もう殿方には懲り懲りなのですもの。私は、誰かの幸せを穏やかに祝福していられることが一番幸せですわ」
ベッキーは眉間に皺を寄せたが、それ以上何も言わなかった。もし今度どこかで、ローラが二度と恋などしないと誓った原因の男とその伯母を見かけたならば、その時は相手を絞め殺してしまうかもしれない、と思いながら。
「ええ、ローラ嬢の仰る通りですわ。大抵の殿方は、赤ん坊と同じくらい手がかかりますもの。野心の成就の邪魔になりますわよね」
マープル嬢が鹿の子編みをしながらローラに賛同した。
「……私は野心の成就なんて望んではいなかったのにな」
ベッキーの脳裏に、甘酸っぱいアプリコットジャムが好物だった「誰か」の面影が過った。
モリーが後ろ向きに放り投げたブーケを獲得したのはダイアナだった。彼女にとって一番の難敵はエズメだったが、彼女が相手でも、これだけは譲れなかったのだ。
「……ダイアナ、結婚する予定はまだないよね?」
独身女性の群の一番外側にいたアンからそう尋ねられた時、彼女は思わずちらっとアーセン氏に視線を向け、気付かれる前に視線を逸らした。
「……『最近、仕事関係で出会った人が気になる』と仰っていましたものね」
合点がいった、という様子で頷くメグの口を、ダイアナは思わず塞いでしまった。
「お願いやめて、向こうは耳が良いんだからさ」
「一見、胡散臭い笑顔だけど、良い人ではあるよね」
口を塞がれていないアンがそう言うと、アーセン氏が、ちらりとこちらを見たので、ダイアナは思わず赤くなってしまったのだった。
女性たちがブーケを受け取ろうとするのを見守っていた花婿介添人たちのうち、メグがブーケを獲得することを願っていたリューは、目に見えて落胆していた。
「いや、君にはまだ結婚は早いし、コガ嬢がもしブーケを獲得して、他の男と結婚することになっても嫌過ぎるだろう?」
アーセン氏はリューにそう言い聞かせたのだが。
「……他の男って、誰です?」
リューからじっとりとした目で見上げられたアーセン氏は、思わず後退った。
「……落ち着きたまえ、例えばの話だから」
シェーンがリューの肩を撫でて宥めた。
「リュー。貴方は、昨夜のオシアン公からのご忠告を先に思い出すべきですよ」
「お言葉ですが、シェーン殿はまだ恋をしたことがないんですよね?」
リューの恨めしげな言葉に、シェーンは素直に頷いた。
「ええ、私は最近ようやく、男同士で協力したり語り合ったりする楽しみを知ったばかりですからね」
その言葉を聞いたアーセン氏は、へらっと笑って提案した。
「それなら、結婚式の片付けが終わったら、三人だけで打ち上げに行きましょうか」
シェーンが真顔で答えた。
「構いませんが、二人とも、今夜は酒は止めてくださいね」
ふと、離れた所から笑顔が胡散臭いと言われた気がしたアーセン氏は、花嫁介添人たちの方を見た。
声の主はアンの方だったと思うが、どういうわけかダイアナと目が合った。ダイアナが、赤くなって顔をそむけるのを見た途端、何故か彼は強く思った。
もう一度、彼女にこちらを向かせたい、と。
* *
その夜、バンガローの寝室に「花婿のケーキ」を持ち込んだベッキーは、一人の若者の夢を見た。
見知らぬ人間の若者なのに、何故だか、とても大切な相手だという気がした。
「是非とも君に、レグザゴーヌの水族館を見せたいと思ったんだ――」
優しく手を引かれ、もう久しく呼ばれることのなかった名で呼ばれて、ベッキーは目を丸くした。もう、誰も彼女をその名前で呼ぶことはないだろうと思っていたのに。
「ラウル?」
思わずそう呼びかけると、若者はきょとんとした顔で首を振った。
「違うよ、僕の名前は――」
翌朝、目覚めたベッキーは決めた。今度こそ、自分にかけられた魔法を解こう。きっと、あの若者は実在する。モリーの焼いたケーキには、招待客の幸せを祈るまじないがかかっているから。
百五十年も自分を縛っていた魔法を解いて、夢で出会った彼に会いに行くのだ。
彼女は、久しぶりに胸躍るような気持ちを味わっていた。
* *
ハワード卿が我に返ったのは、モリーと二人、新婚旅行の為に寝台列車の二人部屋に乗り込んだ時だった。
「……何だか、全てが夢ではないかという気がする」
ハワード卿がそう言うと、モリーがふふっと笑った。
「本当ね。幸せ過ぎて夢みたい」
「モリー」
彼は妻となった女性の名前を呼ぶと、強く抱き寄せた。――彼女の体温、息遣い、香水の匂い、唇の感触……。
「……夢では、なかった、わね?」
顔を離すと、モリーがはにかみながら微笑んだ。
「夢でなくて良かった」
ハワード卿はモリーを抱きしめたまま寝台に腰を下ろした。それから、そっと打ち明けた。
「これまでは、君や他の誰かの命を守るためならば自分の命など惜しくないと思っていた。それなのに、こうなってみると、長く生きたいと願わずにはいられないんだ」
「歳を取っても、一緒にいてね?」
「百年先までも」
ハワード卿は、モリーにそう誓った。
最後は百人一首のこの歌を念頭に置いておりました。
藤原義孝「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」(貴女に逢う為ならば惜しくないと思っていたこの命ですが、貴女に逢えた今となっては長くあってほしいと思うことです)
メグ「藤原義孝は二十一歳で亡くなりましたよね!?」
藤原義孝は天然痘で早くに亡くなりましたが、彼の息子である藤原行成は三蹟の一人として有名ですよね。




