しじみ汁
疑いが晴れた徳市が帰ってきた。髭と月代が伸び放題になっているが、かくしゃくとした足取りであった。
「みんな、心配かけちまったなぁ。あんくれぇで泣き入れる徳市様じゃねぇや。けどよ、どうして放免になったんだ? 何か知らねぇか?」
箱根あたりに巣食う雲助のような風体になっている。ようやく放免されたは良いとして、その理由を知らないようだ。
「ちょっと、何も聞いてないの? 高山様が救ってくださったのよ。イハチって若い人もずっと見張っていてくれたのよ」
父親の様子に異常がないか、あちこち触りまくっていたお君は、得心いった様子で勝手場にたった。
「そうかい。また頭が上がらんくなっちまったなぁ。そいで、どこのどいつが仕組んだんだ? 横っ面の三発も張り飛ばしてやらんと気が治まんねぇや」
そのことについては、居合わせた誰もが知らない。しかし、山賊とも雲助ともつかぬ親方が言うと、荒っぽさが剥きだしだ。が、その実、子供がやんちゃで言っているようで、笑いを誘った。本人にしたところが、疑いが晴れたのだからかまわないくらいにしか思っておらず、その切り替えの早さが周囲に親しまれる所以かもしれない。
「まあまあ、それはそれとして、もう髪結いも閉まっていますから、取り敢えずご飯を食べてゆっくり休んでください」
お君が配んできた汁とご飯がある。酒をつけてあげなきゃ。お君に目配せをして、源太が箸を勧めた。
自分がそうだった。誰も待つ者のいない長屋へ帰ったときに思い知らされる侘しさ。それは、共に膳を囲む人がいないことだった。お君と所帯をもち、その寂しさを感じなくなったのだ。それを後押ししてくれたのが徳市だ。その親父に寂しい思いはさせたくないのだ。
「源太、お前ぇにも世話ぁかけたな、ありがとうよ。庄さん、おツネちゃんにも心配かけた。ありがとうよ」
皆に頭を下げた徳市が、だらしなく開いた口で汁を啜った。
「うっ、ひっでぇ味だな、おい。誰がこさえたんだ?」
一口啜るなり、噴出しそうになって悲鳴をあげた。
「どうしてよ。源さんなんか黙って飲んでくれたのよ」
お君の顔が熟し柿のようになった。そりゃあ下手かもしれないけど、父親に飲まそうと思えばこそ話に加わらずに作ったしじみ汁なのだ。もっと言い方があるだろうと口を尖らせるお君である。
「そりゃあお前ぇ、遠慮してんだよ。察しろよ、そんくらい。あーぁ、しじみのだしが出てねぇし、味噌の味が飛んじまって。なんとも、しじみを犬死させちまったぜ」
礼を言うどころか、お手上げとでも言いたそうだ。
「どうしてよ。ちゃんと水から煮たし、味噌だって持ってくる寸前に溶いたのに」
お君は剥きになって反論した。
「ついさっき溶いた? いいか、おい。ありゃあなぁ、ぼちぼち沸かさなきゃだめなんだぞ。しじみがよぅ、あら、いい湯だことってうっとりすると、ちょっとだけ口開くんだ。ところがよ、江戸っ子ってなぁ痩せ我慢するもんだ。しじみだってそうだぞ、ちいとばかし熱めの湯が好きなんだ。クワァーっと熱くなったら、ハアハア息するだろ? そんときにパカッとな。旨味がジュワーって出てくるのはそん時なんだぞ。お君、そいでどうしたぃ」
「どうって、……蓋をしてグツグツグツグツ」
「石川五右衛門じゃねぇか。お前ぇ、長年何見てたんだ。困ったもんだな、ったく。いいか、しじみが口開けたらな、しじみを取り出すんだよう。茹で汁ですすぎながら取り出すんだぞ。残った汁は何かに移しとけ。そいでな、すすいだ汁に味噌を溶くんだ、ちょいと濃いめにな。そこへしじみを戻して、別けといた汁で濃さを加減すんだよ。お君、聞いてんのか?」
「知らないわよ、そんなこと。なにさ、せっかく作ってやったのに。源さんはいいんだよ。私がこさえるものは何でも美味しいんだから」
番屋に留め置かれて意気消沈するどころか、いつもと変わらぬ和やかさが戻っていた。
ニゴロの徳市が番屋から出るところを義助は見ていない。しかし、このところ消えていた店に灯りが戻っている。そして、笑い声が通りにまで洩れていた。
それにしても甚六が戻ってこないのは何故だろう。まさか持ち逃げしたのではないだろうな。だけど五両といえば大金である。三両盗めば首がとぶというくらいだから、五両持ち逃げしたらどうなるかくらい弁えているはずだ。ならばどうして現れないのだ。いやいや、別のまさかもあるではないか。飯屋が出さなかったということだってありうる。そもそも、どうして徳市が解き放たれたかが問題だ。そういえば、あの莫迦どもはどうしているだろう。といっても、この時刻には岡場所に入り浸って長屋にはいまい。朝になったら帰るだろうから、今夜は身を隠していよう。甚六が戻るまでは姿を現さぬほうがいいだろう。それにしても、蚊がひどいなあ。
いろんな想いが交錯していた。
「すっかり心配ぇかけちまったなぁ。が、疑いが晴れたことだし、忘れちまうにかぎるな」
若い者を安心させて帰した徳市は、もう一人、心配して帰りを待ちわびていたハツに小さく頭を下げた。大山参りにでも行ってきたようなつもりだったのだ。
「大変なことでしたね。でも、早くお忘れなさい。物事にこだわらないのが徳市さんの良いところではないですか」
しかし、若い者は当然のこと、ハツも堅気ということをすっかり忘れていた。心配するなと高山から報せがあったとはいえ、番屋に留め置かれるだけで落ち着かない日を送っていたのだ。そのハツが、意外な呼び名で徳市を呼んだ。
えっ、と親方がおハツを見た。危うく聞き逃すところだった。
「おハツさん、今なんて言いなすった? たしか、徳市さんって言わなかったかい?」
「どうでもいいじゃありませんか、そんなこと。そんなことより、着替えをなさいな」
そ知らぬ顔で親方に着替えを促すおハツ。
「汚れものは、明日洗っておきますからね」
そうするのが当然とでも言いたげな、情がこもっていた。
「す、すまねぇ。……いや、お君に洗わせよう。そうでなきゃいけねぇ、おハツさんにそんなことさせちゃぁいけねえ」
うっかり素直に応えてしまった徳市だが、その意味に気付いたのか大きく頭を振った。
「なんですか、焦れったい人ですねぇ。誰が洗っても構いはしませんよ」
どうして頭を振ったかなど先刻承知しているのか、笑いを含んだ言い方に聞こえた。
さんざん押し問答したあげく、説得された徳市は自室へ戻ってピシャリと襖を閉じた。しばらくして細く襖が開き、くるくると丸められた襦袢が押しやられてきた。
苦笑いしながらそれをたたみ直したハツが、もう一声かけた。
「下帯はどうしました? 替えたのでしょうね、出してください」
「そ、そいつはいいや。自分で洗うからよ」
どうも男という奴は、自信のあること以外にはとんと臆病な生き物のようだ。荒っぽいことならどんと来いという徳市だが、まるで子供のように狼狽しきっている。面と向かってハツのように迫られると、萎縮してしまうのが男の特質かもしれないし、間違いなく徳市の弱点のようだ。
「何を言っているのですか。お前様は人様が口にするものを作るのが務めですよ。なのに、下帯を洗った手で料理なさるのですか」
ハツは痛いところを衝いた。調理をする者が、事もあろうに下帯を洗っているのを誰かに見られでもしたら、いったいどんな噂がたつことやら。ただ揶揄されるだけならともかく、評判をおとすことは十分に考えられるのだ。
「い、いや、合間にちょちょっと……」
「合間?」
「だからよぅ、勘弁してくれよ」
進退窮まった徳市は、見栄も体裁もかなぐり捨てて泣きをいれたのだ。
「何を言っているのです。それと、行水くらいはできたのですか?」
「そんなこと、できるわきゃねぇよ。手拭いで拭くのが関の山だ。けど、それが?」
細めに開いた襖のむこうから、ボソボソと言い訳めいた声が洩れてきた。
「なんですか、無精な。洗いなさい」
「い、いいよぅ」
「洗いなさい」
「いいって」
「じゃあ……」
灯がふっと消えた。
「洗ってあげます。つ……つぼ洗いとやらで……」
消え入るようなハツの声とともに、敷居を滑る忍びやかな音がした。
源太はじっと考えていた。どうして徳市が放免されたのかを。というのも、嘘の訴えであったにしろ、それを取り上げて詮議にかけたからには、もし真相が知れたとして簡単に放免するだろうかと思うからだ。そんなことをすればお上の面目が丸つぶれになるのではないだろうか。仮にそうなれば、誰もお上の指示に従わなくなってしまう。だから、無理無体な手段をとっても留め置くと思ったのだ。
「お君、親父さんはどうして放免されたのだろうね」
蚊帳の中で何匹かが羽音をたてている。時折あちこちをぴしゃっと叩くかわいた音がしていた。蚊遣りを焚いてはいるのだが、いっこうに効果がないようである。
土瓶に水を汲んで枕元に置いたお君が、行灯の火を切った。儚げだった灯りがふっと消えて暫くして、源太は呟いたのだった。
「高山様が助けてくださったのじゃないかねぇ。ほら、あのイハチって人がしょっちゅう姿見せてたじゃないか。それにさぁ、あの人、只者じゃないよ」
真っ暗な中で、するすると帯を解く音がする。
「明日なんだけどね、親父さんを誘って高山様にご挨拶に行こうかと思うんだよ。味噌のことも話さなきゃいけないし、ほら、高山様から真相を聞けるかもしれないだろ」
「あぁ、そうだね。そうしておくれかぃ? かっちけねぇ」
お君は、そうして源太が徳市のことを心配してくれるのが嬉しいのだ。だから、かっちけねぇなどと甘えてみせたのだろう。
そして、庄吉も別の口実で寄場へ行こうと考えていた。
「おツネ、おれさあ、めをなおそうとおもうんだ」
隣にうるさくしてはいけないと、耳元に口を近づけて話す。聞き取りやすいよう、一音づつゆっくり話した。
「気が決まりましたか? 思うようにしていいですよ」
目が見えるようになったらどうなるかという不安はある。目が悪いことで庄吉は内気になり、自分に対して優しいのではないだろうか。不自由なく見えるようになったら、耳の悪い自分を疎ましく思わないだろうか。そういう不安がないといえば嘘になる。が、自分ひとりが我慢できることであれば、庄吉の思うようにすれば良いとハツは考えた。耳が悪いというだけで疎まれてきたことを思えば、今は天国のようなものにハツには思える。それが変わってゆく惧れはあるが、その疑念を打ち消すように、庄吉は自分を好いてくれていると信じたかった。
「めがみえるようになったら、おツネのかおをはっきりみえるよ」
もし自分の顔を見て失望したら、その恐怖がツネを積極的にした。
「どうしたんだ? なにか、こわいのか?」
ツネは小刻みに首を振りながら、ただ庄吉の胸に顔をうずめた。
翌朝、久しぶりに徳市のしじみ汁で朝餉を食べていた。ハツはもちろん、源太とお君も、それに、庄吉とツネも揃っている。
「やっぱり、この味ですよね」
すっかり舌に馴染んだ味だった。そもそも源太がお君と所帯をもったのは、この味に惹かれて通ったからだ。ほんの五日ほど欠けただけだが、所帯をもって以来毎朝飲んだ味だけに、安心するのは無理のないことだ。
「ちょっとぉ、恋女房のより美味しいっていうの?」
拗ねてみせるお君を徳市がからかい、源太がしまったという顔をしてみせ、庄吉もツネも、ハツまでもが朗らかに笑った。
「親父さん、実は、味噌が少しづつ売れ出したので、この先の相談がてら寄場へ行こうと考えているのですが、親父さんも一緒に行きませんか?」
皆が箸を置き、番茶を飲みだした頃を見計らって源太がきりだした。
「おう、高山様には手助けをお願いしたんだからよ、知らん顔はできねぇ。よし、行くか」
「その時なんだけど、俺も連れて行ってくれないかなぁ」
庄吉が遠慮がちに言った。自分が同行するとなると足手まといになってしまう。気の短い親方のことだから、きっと大八に乗せて行こうとするだろう。二人には歩かせて、自分だけのうのうと車に乗せてもらうのが心苦しかったのだ。
「庄吉、お前も行くって、いったいどうした……、あっ、目を治す気になったのかぃ?」
「うん。目さえ見えるようになれば、きっと彫りができる。そうすりゃ、おツネに心配かけずにすむ。そう思ってね」
「うん、そうしなよ。でなきゃ、座頭の修行をしなけりゃいけないからね。いや、座頭が悪いなんて言いやしないよ。だけど、せっかく彫りの修行したんだし、ぼちぼちお客もついてきたことだしね」
「ようし、そうと決まったらもたもたすんなよ。源太、大八出してこい。お君、後をたのんだぜぃ」
庄吉の予想したとおり、大八に揺られて行くことになったようだ。
得心できぬまま徳市を捕らえさせられた捨松は、言い知れぬ屈辱感にふるえていた。訴えの真偽を確かめることを怠り、無理に解決させようとした同心に怒りをおぼえ、そもそも偽の訴えをした者、させた者への怒りもある。それより、信念もなく徳市を引き立ててしまったことの後悔からだ。だから、かかされた赤っ恥を雪ぐことしか頭になかったのだ。しかし、高山が捕えている遊び人気取りの二人と、義助の手下だった甚六を引き取らねばいけない。念入りに調べてさえおけば、差配違いの盗賊改めから横槍を入れられることもなかったはずだ。
せめてクラクラするような日差しはごめん蒙りたいと、朝餉を終えたらすぐにでも三人を引き取りに行きたかった。だけど、いくら縛ってあるとはいっても、自分だけで三人を連れ歩くことはどだい無茶なことだ。そのために手伝いを頼んでいたのに、いくら待っても集まらないので、ジリジリしながら自身番の戸口を出たり入ったりを繰り返していた。
三人の来訪を知らされた高山は、有無を言わさずに三人を小屋に招じ入れた。そこに入れておけば、少なくとも関係者の姿を見られる惧れがないからである。そして、こう言って徳市を宥めたのだ。
「徳市、其の方には気の毒なことであったが、人というものは妬むものだ。儂とて、其の方の一途な男気が妬ましくてかなわん。だがな、いくら妬んだとて儂には不吊り合いなようでな、まったく備わぬのよ。ところが、それに気付かぬ浅ましい者もおる。不満はあろうが、堪えてくれぬか」
「承知しやした。高山様のお言いつけならすっぱり忘れやしょう」
徳市は、聞き分けよく高山の言葉に従った。宥めた高山自身が驚くほどの思い切りである。
「良いのか?」
「へい。高山様がそう仰るんだ、嫌も応もありやせんや。そんなことより、とんだ迷惑をかけちまって面目ねぇこって。それと、うちの若ぇのが何やら用事だそうで」
大きな図体がちょこんと正座しているのは愛嬌がある。両膝においていた手は一時もじっとしていない。首筋を撫で、頭を掻き、鼻を擦ったかと思えば額に当てる。その様子が子供のようで、憎めない。
「こらこら、跡継ぎであろうが、口の悪さは直らんとみえるな。で? どんな用向きかな?」
その様子がおかしいとみえ、高山はクスリと笑った。そして、用向きを確かめるために源太と庄吉にゆっくり目を這わす。
「じゃあ、おいらから先に」
先に話せと促すように、源太が庄吉の腿を抓っのだった。
「再々お気にかけていただきました目のことでございますが、お言葉に甘えて見えるようにしようと気が決まりました。何をどうすれば良いのかすらわかりませんが、よろしくお願いします」
庄吉が消え入るような声を漏らした。
「そうか、気が決まったか、それが良かろう。そのかわり、指南役になってもらわねばならんぞ。でないと儂の立場が……、下手をすると無役になってしまうからな」
笑いをふくんだ優しい声だ。今まで庄吉は、侍というものは獰猛な狼だと思っていたのだ。が、高山は違う。それに、この小屋の中で声をかけてくれるどの侍も、高山のように気さくだ。
「方々、庄吉が指南役を請けてくれましたぞ」
高山がふれると、おおっと歓迎の声があがった。
「庄吉、高山殿から見事な根付を見せてもろうた。まさに、狐が跳ねて鼠を狩らんとしておる様子、見事なものだ。そこでだが、これより『跳狐』と号すがよかろう。跳弧の庄吉、良い名ではないか」
庄吉に不思議な道具を見せてくれた住田が、意外なことを言った。
「さすが住田殿、良い名でござる。庄吉、ありがたく名を頂戴するがよい。跳狐堂、跳狐、うむ、良い名だ。なれば、誰ぞに焼印を作らせよう」
その提案に膝を打ったのが高山だった。とかく己を大物に見せかけようというけち臭い根性を捨てきれないのが人足である。教える者としての貫禄をつけることは決して無駄ではないし、かえって人足を統率しやすいかもしれない。まずは人足が一目置くことを期待できる。深く頷いた高山は、堂号の焼印を作らせようとまで言い出した。
「そんな、滅相もないことを」
「かまわぬ。焼印を作るのも職人になる稽古だ。さて、待たせたな源太」
高山が源太の用を聞こうとしたまさにその時、戸がガラッと開いて捨松が顔をのぞかせた。
「ごめんくださいまし、富田町の捨松でございます。甚六以下三名を引き取りにまいりました」
おずおずとした声音だったが、何日もやりあった親方には、姿を見るまでなく誰であるかすぐにわかった。
「おう、よそいきの言葉なんぞ使うと、ベロ噛んじまうぞ」
どこから聞こえたのだろうとキョロキョロしていた捨松が、目敏く徳市を見つけた。何人もの同心が書き物をしている場所で、涼しい顔をしてお茶をご馳走になっているではないか。
奉行所に立ち入ったことなどない捨松にとって、せいぜいが八丁堀の役宅が関の山である。当然のことだが茶を振舞われることはなかったし、座を与えてくれることもなかった。立ち尽くすか、相手の機嫌しだいで片膝立ちだった。奉行所の同心は盗賊改めより人間味があると、なんの理由もなく信じていたのに、これはどういうことだ。盗賊でさえ恐れる戦闘集団であり、御用をあずかる自分ですら薄気味悪く思っていた盗賊改めが、見知っているどんな役人よりも庶民的ではないか。輪をかけて驚いたのは、高山という同心と徳市との関係だ。しかも、その場にいる誰もがそのことを咎めていない。
「こ、こらっ。手前ぇ、なんて罰当たりなことしやがんでぇ。そんなとこへ上がりこむんじゃねぇ」
捨松は、こっちへ来いとばかりに大きく手招きをしていた。
「こっちが先に着てんだからな、じきに済ますからちぃと待ってな」
徳市は、いかにも得意そうであった。
「では手短かに。ぼちぼち味噌が売れ始めていますが、売ってかまわない分はどれほどありましょうか」
確かめておかねばならないことだった。売れるからといって調子に乗って、品切れですでは話にならないし、残りの量によっては売り先を制限しなければならないからだ。途切れずに供給できなければ、せっかく掴んだ客を別の店に逃がしてしまうことになる。一旦逃げた客を呼び戻す難しさを源太は心配したのだ。
「そうよなあ、秋になれば仕込みをするが、春先までは寝かさねばなるまい。とすると、余剰分は……」
なかなかの量であることを知った源太は、目の玉だけを天井に向けて少し考え、考えをまとめるように小さく頷いて話を終わらせた。
わざわざ人ごみばかりを選んで歩く男がいる。不意に立ち止まって周囲に目を配り、用もないのに路地を折れて早足になる。路地を伝って今来た通りに戻るとき、きまって周囲の様子を窺った。不審な尾行がないことをたしかめると、元の人ごみに紛れ込む。さっきからそんな奇妙なことを繰り返している。屋根の上からその様子を注意して見ている者がいたら、間違いなく怪しまれる行動であり、腹を抱えて笑えることでもある。といっても、往来の人にとっては迷惑なことをする行きずりにすぎない。やがて男は木場の方角に道を折れた。
太さが八寸ほどもある丸太が積み上げられた横で、せっせと皮を剥いでいる一団がいた。余分な枝をチョウナで落とし、ちょっとだけ鑿を打ち込み、そこに鉄のヘラを挿し込んでくじると、こげ茶色の皮がバカッと剥がれる。あとは、口を開けた皮に沿って次々に剥がしてゆくのである。そうして剥がされた抜け殻を避けるように、男はその裏手にある長屋に入っていった。
トントントン
返事のない戸口は、あっけなく開いた。そっと中に入り、住人が帰っていないか確かめる。チッ、男の口が小さく鳴った。
「やっぱり俺が行っときゃよかった。金が手に配らなかったのなら、甚六は戻っているはずだ。……野郎、持ち逃げしやがったな」
徳市って奴が放免されたとなれば、自分の仕掛けた嘘はばれてるということだ。と考える冷静さはもっている。
しばらく待っても帰ってこない住人に見切りをつけ、男は行く先を定めず歩き始めた。長屋に帰れば、まだ一両に近い銭を隠してはあるのだが、どうにも帰りたくないと自分の足が言っている。腹がへったなぁ。どうにかして銭を。頭をよぎるのは食い物と銭のことだけであった。
ここいらなら顔を知られていない。そう考えたのは永代橋を渡った先だった。言いがかりをつけるのに手頃な店はないかと物色していた目の端に、縄を打たれた甚六の姿がとびこんだ。慌てて路地に身を隠してじっと窺っていると、甚六だけではなく、遊び人気取りの若造二人もいっしょである。先頭を歩かされている甚六の縄尻を掴んでいるのは、富田町の捨松だった。
たくらみは露見していた。誰が調べたのか解りはしないが、確実に露見している。と同時に、確実に自分が追われているのだと思い知った。
逃げようと足が動き出す。銭がない、と、頭が引き戻す。一刻も早く逃げ出そうと足が悲鳴をあげても、空腹を満たすことと逃走資金を掴むことを頭が主張している。こうなったら、破れかぶれだ、軒並みにたかってやろう。縄打たれた三人に背を向け、男は歩き出した。その男こそ、北六間堀の義助であった。
気の弱そうな商人や、女連れの年配者にわざと突き当たっては小銭を毟り取り、見る間に一両ばかりを手にした義助は、大急ぎで腹を満たすと、江戸を売ることにした。しかし、安穏に暮らせる場所を奪われる悔しさでいっぱいだ。どうせなら、おさらばする前に仕返しをしなければ腹の虫が収まりそうにないが、だからといって、悠長なことをする暇はない。そこで思いついたのは、捨松へのあてつけである。富田町の捨松というくらいだから、きっと富田町に住んでいるのだろう。イタチの最後っぺというやつだ、富田町に火をつけてやろうじゃないか。風向きしだいではあの大瓢箪も灰になるかもしれない。俺をコケにしたことを思い知らせてやる。三十文ほどを台の上に叩きつけた義助は、ゆらりと腰を上げた。
陽が落ちてしばらくの間は、空はほの白い光に包まれている。町衆にとって、ようやく一日が終わろうとする時刻だ。商家の表戸が下ろされ始めると、急に夜がやってくる。これからひと時の間は仕事を終えた職人が行き交い、手近な飯屋でいっぱいやろうというので賑わうものだ。が、それもひと時のこと。空に満天の星が輝きだす頃になれば、そろそろ床につく家が出始める。燈油だってばかにならない出費だからだ。長屋の戸から一つ、また一つと灯りが消えていった。
ドブ板を照らす月明かりをたよりに、足音をしのばせた義助がうごめいていた。
路地裏に入り込んでうずくまる。木場で拾い集めた木屑や皮をぱらぱらっと撒き、徳利の油をトプトプとかけた。おあつらえ向きに、カンナ屑があったのをその上に載せた。薄いカンナ屑はすぐに油を吸う。それが灯心の役目をしてくれるし、導火線の役目もしてくれる。棟割り長屋の真ん中あたりに木屑を集め、壁にも余った油をふりかける。背になった壁にもふりかければ、一気に燃え上がることは確実だ。
竹筒に忍ばせておいた火種に息をふきかけ、カンナ屑にそれを移した。
フーッ、フーッ
木目に沿って赤い線が走り、なおも強く吹いていると、薄い煙の下に猫の舌先が立ち上がった。
『へへっ、ざまあみやがれ』
義助は、残った油を捨て、木屑も残らず撒き散らして闇に消えた。
遠くで半鐘が鳴っている。それを聞きつけた徳市は、二階の窓を開けてみた。すると、永代橋の方角がぼおっと明るくなっている。
「おハツさん、火事だ。ちょっと見てくっからよぅ、源太とお君にも報せてくれ。おツネちゃんと庄さんも店へ呼んどいてくれ」
徳市は言い捨てるなり表へ飛び出した。風向きによっては店にまで炎が押し寄せるかもしれないのだ。
橋のあたりに行けば永代橋の方角が見渡せる。同じように考えるのか、大勢の人が集まってしきりに指をさしていた。
ドンッ
火事場の方から逃げてきた男が突き当たった。そのとき、徳市を振り払おうとする手がぬるっとしていた。
「おいっ、ちょっと待て」
不審に思った徳市が呼び止めると、ちらっと振り返って舌打ちする顔が見えた。金をせびりに来た御用聞きだ。御用をあずかる者が火事場から逃げようとすることが不審であり、油のようにぬるっとした手が不審だった。
「おいっ、待ちやがれ」
徳市には、役人から逃げ回ることで鍛えた足がある。草履を跳ね飛ばして追いすがれば、あっけなく襟首を掴むことができた。
「舐めんじゃねぇ、三下!」
手を振りほどいて逃げようとするのを、向う脛を蹴りつけて動けなくしてしまう。そして、相手の帯を解いて後ろ手に縛り上げた。
「やりやがったな、手前ぇ。赤猫は獄門だってのをわかってんだろうな」
義助を店に引っ立てた徳市は、縛った帯を鴨居に掛けた。一時も休めないよう、直立させるように帯を引き、垂れ下がった分を首にかけた。片方の足を曲げさせ、細紐で結わえてしまえば、義助は片足立ちである。
腕を休めようとすれば首が絞まり、足を休めようとすれば首が絞まる。情け容赦のない縛り方だ。
「お君、お前ぇたちはこいつを見張っててくれ。暴れるようなら構わねぇ。ここをこうやって……」
一旦お君に握らせたすりこ木をもぎ取った徳市が、義助の脛をコンと叩いて悲鳴を上げさせた。
「源太、お前ぇはいっしょに来い。火ぃ消さねぇと大事んなっからな」
江戸は、その大半を武家屋敷が占めている。町人は残ったわずかばかりの土地を奪い合うように住んでいた。そして財力のある者は当然のように広い家に住むので、庶民の多くは猫の額ほどの土地にひしめいていたのだ。十軒続きの長屋が向かい合わせに、それが五つも六つも並んでいる。ましてや屋根は板葺きである。火が出たらあっという間に延焼するのだ。
今回の火事は、幸いなことに風向きが南だったことで延焼を免れることができたのだが、板塀の上で仁王立ちになった親方がどれだけ水をかけたやら。それでも多くの長屋が焼け落ちた。
火を逃れて人は広場を目指す。近くの広場といえば、富岡八幡宮だった。
騒然とした一夜が明けた。
焼け出された人々が呆然と立ち尽くしている。行き場をなくした人々は、それでも何か持ち出せる物が残っていないかと、煤にまみれたまま亡者のように行進を始めるしかない。
江戸に住めば知恵がつく。普段から僅かに蓄えた銭は床下に埋めていたし、帳簿類は井戸に沈める知恵があった。また、いつ火事に遭うかもしれないので家財というものを持たないようにしている。比較的日銭が稼ぎやすいので、すぐにでも生活再建にとりかかることも不可能ではない。しかし、炎に炙られた鍋釜だけが残り、炭となった米粒や味噌が残ってなんになるだろう。それを目の当たりにしてどうなるだろう。
嘆くということは、まだゆとりがある証拠だと誰かが言っていた。実際にそうなのだということは、誰もが知っている。それなのに人々は僥倖を願って重い足を引き摺っていた。
「お君、飯を炊け。源太、お前ぇは河岸へ行け。しじみがなけりゃアサリでもかまわねぇ。どっちもなかったら、豆腐を買ってこい。大急ぎだぞ。庄吉、お前ぇはムスビを握れ。おツネちゃんとおハツさんも同じだ」
徳市の号令が響いた。
「そんなこと言っても、目が見えないから……」
庄吉はつい後ろ向きになる。確かに目が悪いこともあるが、子供の頃から面倒事を避けようとする傾向がつよかったのだ。
パシッ
庄吉の頬が派手な音をたてた。
「意気地なし!」
目を剥くおツネの顔が、庄吉に映っただろうか。たとえ見えなくても、厳しい声だけは届いたはずだ。
炊きあがった飯を大急ぎで冷まし、総出でムスビを作る。まだ冷めきっていないので、五個も握ると手が火傷したように熱くなった。手早く作るためもあるが、少しでも手を冷ますために味噌を手に塗っている。その味噌がまだ熱々の飯粒にまとわりついて、絶妙な塩味がつく。そうしてできたものを飯櫃に入れる。焼け出された人数を考えたら、百や二百作っただけではとても足りない。それはわかっているが、他にやりようを考えつかなかった。
嬉しそうにそれを持ち帰る顔を見ると報われる。大急ぎで作ったしじみ汁も、何度も作り変えをした。そんな慌しい思いも、自分が火事に遭わなかった幸運にくらべれば、僅かな代償に思えた。
「富田町の!」
大きな呼び声に、陰気くさい顔が振り返った。
「ほらよ、まだだろ?」
徳市が差し出す包みを見て、うっそりと目の前に立った。
「大瓢箪の。すまなかったなあ、おかげで焼け出された人が少なくてすんだ。これは?」
手にした包みが暖かいからか、訝しそうに竹の皮を見やった。
「どうせ何も喰ってねぇんだろ? それとな、元気出るぜ。……ほれ、飲めよ」
この男は、足場の悪い板塀の上から水をかけていた。自分が差し上げる桶をひったくっては、ずっと水をかけていた。自分の顔だって見ているはずなのに、ただ火を消すことに懸命になっていた。そして今、煮え湯を飲ませた俺に食い物をよこし、椀を差し出している。
「かっちけねぇ、兄弟」
捨松は、わけもなく口走っていた。
「兄弟ぇか……本気だろうなぁ、おい。願ってもねぇや、さんざんやり合った仲だからな。そいじゃあ、よぅし、こうなったら兄弟ぇに手柄ぁ譲ってやらぁ。ただし、これはお町の受け持ちじゃねぇからな、高山様に引き渡すんだぜ」
顎をしゃくった先に、鴨居から吊り下げられた義助の姿があった。かろうじて片足立ちになってはいるが、ずっと放置されていたからか、義助は足をブルブルふるわせていた。
「あれは?」
「火事場の方から逃げてきやがったんだ。御用聞きだって言ってやがったくせに、消そうともしなかったしな、手が油でヌルヌルだったからよ、ふん捕まえといたんだ。間違ぇねぇぜ、あいつが火ぃつけやがったんだ」
捨松は、ぱかっと割ったムスビの片割れをむさぼるように口にした。そして、残った片割れを徳市に差し出した。
「宜しく頼まぁ、富田町の」
その片割れを受け取ってパクッと一口食べた徳市が、飯粒をつけたまま屈託のない声で言った。
「固めのムスビはどうでした? だけど親父さん、固めと言ったらこれでしょう」
いつの間にか皆が集まっている。お君もおツネも庄吉も、そしておハツも。
皆を結んだのがしじみ汁だった。そういう思いをこめて源太が差し出した椀には、たっぷりのしじみが口を開けていた。