樅ノ沢自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている④
俺は戸塚さんを管理棟の壁際まで運んで座らせた。広場の圧はここまでは薄い。氷見が上着を脱いで戸塚さんの肩にかけた。
「医療顧問に連絡済みです。下山後すぐに診せます」
「すんません……ほんとに、すんません……」
戸塚さんは何度も頭を下げた。下げながら、自分の喉を不思議そうに押さえていた。
「いつからですか」
氷見が訊いた。
「春からですわ。委託の仕事を始めて、二週目くらい。最初はね、広場を横切るときに、なんか会釈しとったんです。誰もおらんのに。変な癖がついたなあと思って」
「それから」
「返事をするようになって。朝ここを通ると、はい、はい、言うてしもうて。そのうち、契約の日でもないのに、目が覚めたら軽トラに乗っとるんです。女房には言うてません。言えますか、こんなん」
戸塚さんは笑おうとして失敗した。膝の上で自分の手を握ったり開いたりしている。
「軽トラのハンドルを握っとるときはね、まだ自分なんです。今日はやめとこう、引き返そう、思うんです。思うのに、手が曲がらん。山の方へしか、曲がらんのです」
「一番おかしいのはね。誓いの言葉ですわ。わたしたちは、自然を大切にします、いうやつ。あれ、わたし、ここの出身じゃないんです。林間学校も来とらん。習ったことがない。ないのに、口が、知っとるんです」
自分の口を指さして、戸塚さんは俺を見た。
「自分の口が、知らん言葉を知っとる。あれは、怖いもんですよ」
「……でしょうね」
俺は広場を振り返った。式次第はまだ動いている。点呼の穴が空転を続けて、伸びた圧の先で七海が踏ん張っているのが視えた。登山道の入口に薄い膜を張って、伸びてくる整列の圧を内側から押し返している。膜の向こうで登山者らしい二人連れが何も知らずに準備運動をしていた。腕がときどき不自然に体側へ揃いかけて、七海が押し返すたびに自由に戻る。膜は目を凝らさないと視えない薄さだった。薄いのに破れない。圧が押すたびに内側からふくらんで、押された分だけ正確に押し返す。力ずくではなく、境界の位置を覚えていて、そこから一歩も譲らないやり方だった。
氷見が俺の隣に立った。
「緒方さん。戸塚さんの中に登録が残っています」
「登録」
「名簿の枠との接続です。喉の道は抜いていただきましたが、枠そのものが戸塚さんを覚えています。正確には、名前ではなく、返事をする身体として」
視ると、確かにあった。戸塚さんの喉の奥から細い糸が一本、広場の点呼の枠まで伸びている。今は休眠している。明日の朝にはまた引く糸だった。
「これを残したまま式を解散させると」
「戸塚さんの登録ごと流れます。式と一緒に、返事をしていた時間ごと持っていかれる恐れがあります。先に切り離してください」
「分かった」
俺は糸の根元、戸塚さんの喉から三センチのところをつまんだ。戸塚さんがびくりとする。
「動かないでください。……戸塚和也さんの分だけ、名簿から抜く」
糸は細いくせに根が深かった。二ヶ月ぶんの朝が撚り合わさって一本になっている。喉に近い側を押さえて、枠に近い側だけをひねる。本人の二ヶ月には触らない。枠との接続だけを断つ。
指先でひねって、切った。糸は音もなくほどけて消えた。戸塚さんが大きく息を吐いた。
「氷見。式の本体の方だ。解散させるには」
「式次第の文法上、解散の宣言ができるのは指導員の役だけです。位置は朝礼台。台の上から、点呼の完了を確認して、解散を宣言する。それが四十年間の手順でした」
「で、その指導員の役は三年前からずっと空席」
「はい。式は参加者を集めることはできても、指導員を作ることはできません。参加者は式を終わらせられません。だから終わらないんです」
「……構造は分かった」
俺は朝礼台を見た。低い木の台。階段が三段。何の変哲もないただの台のはずなのに、広場の式次第の型の中で、そこだけが空白のまま光って視えた。誰も埋められない枠。
四十年間、あの台には毎朝誰かが立った。教員。指導員。当番の引率者。立つ人間は毎回違っても、役は同じだった。式次第はその役だけを覚えていて、人間の方は一人も覚えていない。だから誰がいなくなっても式は困らなかった。困らないまま、終わる方法だけを失った。
「俺が台に立って、解散を言い渡す」
「徴用されます。式はあなたを参加者として列に引き込もうとするはずです」
「だろうな」
「台の上に立ちきるまでが勝負です。立てば、役はあなたのものです」
氷見は淡々と言ってから、半拍だけ間を置いた。
「……立てますか」
「立つよ。そのために五時起きしたんだ」
坂の下から七海が駆け戻ってきた。
「登山の人たち、分岐から向こうのコースへ行ったよ。膜はあと十分くらいなら保たせられる。で、作戦は」
「俺が台に立つ。指導員の役を取って、上から解散を言い渡す」
「わ、出世だ」
七海は軽く言って、それから広場に目を細めた。
「四十年分の式が、相手だね」




