樅ノ沢自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている⑤
広場に入った瞬間、圧が三倍になった。
整列しろ。列に入れ。お前の位置はあそこだ。空いた一枠が俺を呼んでいた。足首に流れが絡みつく。
「断る」
足元の運動量を殺す。接地を固定して、一歩。
肩に圧。列の方へ回そうとする回転。掴んで逆方向へ捻り潰す。二歩。
顎を引かせて前を向かせる圧。点呼に応えろという要求が喉に触ってくる。
「俺は名簿に載ってねえよ」
喉に来た道を指で弾いて散らした。三歩、四歩。朝礼台まであと五メートル。
圧の質が変わった。引き込みから、拒絶へ。
台に近づくな。そこはお前の場所ではない。参加者は台に上がらない。四十年分の手順が壁になって正面から押してくる。壁には厚みがあった。一年ぶんの朝が一枚。それが四十年ぶん、薄い板を重ねた合板みたいに固まっている。一枚一枚は誰の意志でもない。誰の意志でもないものが一万何千回も重なると、こういう重さになる。一段目に足をかけた瞬間、壁が膝を折りに来た。
「四十年、誰も何も思ってねえ式がよ」
膝に来た力を踏み抜く。二段目。
「人ひとり、毎朝立たせて、声が潰れたら帰してやるって」
背中に列の圧が総がかりでぶら下がる。重い。重いだけだ。方向を持つ力なら俺の領分だった。全部まとめて足の裏から地面へ流す。
「──ふざけんじゃねえぞ」
三段目を上がった。
台の上に、立った。
圧が止んだ。
広場が静まり返った。二百の枠が一斉にこっちを向いたのが分かった。誰もいない広場の、誰もいない二百人分の注目。台の上から見ると、白線の列がまっすぐに整っていた。四十年間、毎朝ここから誰かが見ていた景色だった。
見た瞬間に分かった。これは、見る側の景色だ。列に並ぶ側からは一生見えない角度で、広場の全部が一望できる。式次第が俺の輪郭を上からなぞって、役の形に合うかどうかを確かめている気配がした。合わせてやる義理はない。型に嵌まるんじゃない。役を取るんだ。
役が、嵌まった。
式次第が俺を指導員として認識する。点呼の枠が手元に開く感覚があった。二百の枠。返事を待っている穴。
詠唱する。
「ここに在る形に告ぐ
始まりだけを繰り返す式次第に告ぐ
渡され損ねた終わりを、受け取れ
空いたままの台の上から、言い渡す
ここに在る『朝のつどい』という式を
俺が、閉じる」
台の下で型が軋んだ。式次第の六つの枠が、閉じられる気配に身じろぎする。軋みは音ではなく、足の裏から来た。台の木目を通って、四十年ぶんの手順が一斉に目を覚ます振動。閉じられる、ということを、形は形なりに理解していた。理解して、抵抗の仕方を一つだけ知っていた。手順そのものを盾にすることだ。
そして、突っ張った。
解散の宣言が通らない。手前で何かが堰き止めている。視ると、点呼の枠だった。二百の穴が空いたまま、完了していない。式次第の文法が要求してくる。点呼の完了なくして解散なし。順番を飛ばすことは認めない。
次の瞬間、二百の穴が一斉に俺へ向かって返事を要求した。
答えろ。二百回。誰でもいい。お前の喉でいい。
圧が喉に殺到する。戸塚さんの毎朝が、これだった。台の上だろうが関係なく、返事のできる喉があればそれでいいという、中身のない要求。
「──誰が」
喉に来た道をまとめて掴んで握り潰す。指導員は返事をする側じゃない。確認する側だ。
二百の枠を見渡す。どの枠にも名前はない。あるのは返事の置き場だけ。ここに立った子供たちは毎朝はいと言って、言った先から忘れて、家に帰って、大人になって、この施設のことなんか思い出しもしないで生きている。それでいい。それが正しい。覚えているのは形の方だけで、形に覚えられたって誰も嬉しくない。
手元に開いた名簿の枠に、俺は指導員の権限で書き込んだ。
「一番から二百番まで」
声に出す。台の上から、誰もいない列に向かって。
「全員──欠席だ」
二百の穴が、一瞬で性質を変えた。
返事を待つ穴から、欠席と記録された枠へ。空白が空白のまま、確定する。四十年間、正直に書かれたことのなかった記録だった。みんな身体だけここにいて、誰もここにいなかった。今日は身体もいない。だから欠席。それが正しい帳尻だった。
点呼の枠が、完了した。
式次第が次の項目へ進もうとする。誓いの言葉。体操。連絡。俺は全部を手のひらで押さえた。
「省略。以上で朝のつどいを終わる」
息を吸う。
山の朝の空気が肺に入る。冷たくて、うまい空気だった。二百人の子供たちは四十年間、この空気の中で寝ぼけた顔をして並んでいたんだろう。並ばされて、はいと言わされて、それでも式が終われば朝飯が待っていた。終わりってのは、そのためにある。
解散、という言葉そのものなら、この広場に毎朝落ちていた。ただしそれは全部、また明日、の意味だった。もう集まらなくていい、という意味の解散は、言われていない。最初で最後のそれを、台の上から言い渡した。
「──解散」
通った。
手応えがあった。式次第の型の留め具が、上から順に外れていく音のない音。整列の枠が崩れる。点呼の名簿が閉じる。誓いの言葉の枠が、中身のないまま畳まれていく。
二百人分の立ち位置が、列の端から順に解けていった。
手の中で名簿の枠が閉じて、消えた。指導員の役が俺の輪郭から剥がれていく。台が、足の下でただの台に戻り始めていた。




