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【一話完結】天眼の手は、コーヒーが冷める前に帰る  作者: 七宵 凪
樅ノ沢(もみのさわ)自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている
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樅ノ沢自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている③

 最初に来たのは姿勢への圧だった。


 背すじを伸ばせ。顎を引け。両腕を体側に。爪先を揃えろ。言葉ではない指示が空気ごと身体にかかってくる。俺は自分の足元のベクトルを掴んで圧を相殺した。隣で七海が「わ」と言って一歩よろけ、すぐに立て直した。


「引っぱられるね。整列の位置に」


「七海さん。境界は」


「保ってる。ボクと氷見さんの分はね。タクマ君は自分でやって」


「やってるよ」


 氷見だけは何も言わなかった。元から背すじが伸びているので、見た目には何も変わらない。


 広場の空気が整った。等間隔の気配が列を作り終えた。誰もいない地面の上に、二百人分の立ち位置だけが並んでいた。


 点呼が始まった。


 呼ぶ声は、声ではなかった。空気の形だけが順番に動く。名前を呼ぶ抑揚の、名前のところだけが空白になった音。穴の形をした呼びかけが、列の端から順に落ちてくる。


 聞いているだけで耳の奥が嫌な具合に詰まる音だった。呼びかけの形はあるのに、呼ばれている者がどこにもいない。郵便受けだけが並んで、住人が一人もいない建物みたいな音。


 そして戸塚さんの喉が動いた。


「はい」


 子供の音程だった。


「はい」


 別の子供の音程。


「はい」「はい」「はい」


 高い声。低い声。眠そうな声。張り切った声。六十六歳の男の喉から、音程だけを取り替えた返事が等間隔で出続ける。本人の顔は困った笑いのまま固まっていて、目だけがこっちを見ていた。助けてくれとも言えない目だった。


「……趣味の悪い楽器にしやがって」


 俺は淀みの種の輪郭を視た。


 広場全体に式次第が一枚の型として被さっている。整列、点呼、誓いの言葉、体操、連絡、解散。六項目の枠だけが順番に並んでいて、中身がどこにもない。点呼の枠には名簿の型がある。名前は残っていない。人数の枠だけが二百並んでいて、枠が返事を要求する。返事をする身体が一つしかないから、一つの身体が二百回返事をする。


「氷見。この式、最後まで行ったらどうなる」


「解散までは、行きません」


 氷見は広場を見たまま答えた。


「点呼は二百の返事で完了します。戸塚さんの声が保った朝は、誓いの言葉まで進んでいたはずです。あの方が習っていない言葉を知っているのは、そのためです。声が保たなかった朝は、点呼の途中で止まり、戻り、繰り返す。どちらの朝でも、最後の項目までは届きません」


「最後の項目」


「解散です。式次第の中で、解散だけは進行では届かない位置にあります。理由は後で説明します。いまは戸塚さんを」


「戸塚さんは毎朝これを」


「声が潰れるまで、です。返事ができなくなった身体は欠席として外されます。外されて、ようやく帰れます」


「壊れたら帰してやるってか」


 めんどくせえ、と呟きかけて、やめた。面倒とかそういう温度の話ではなかった。


 俺は戸塚さんに歩み寄った。圧が強くなる。お前も列に入れという圧。足首を掴みにくる流れを蹴って外す。


「戸塚さん。いま引き剥がします。少し乱暴になります」


「は、はい」


 返事だけは自分の声だった。


 視る。戸塚さんを保持している力は三本。足裏を白線に縫う固定。背すじを立てる直立。喉に通された返事の道。順番を間違えると喉が保たない。


 足裏から。


 縫いの方向を掴んで九十度ねじる。固定が外れて戸塚さんの膝がかくんと折れた。倒れる前に背すじの直立を消す。最後に喉の道。これは細くて深い。雑に引くと声帯ごと持っていかれる。糸を抜くというより、湿った紙を破らずに剥がす感触で、指先でつまんで、ゆっくり外へ抜いた。


「……っ、は……」


 戸塚さんが自分の呼吸でむせた。俺は肩を貸して列の外へ引きずり出した。七海が走り寄って反対側を支える。


「おじさん、もう返事しなくていいからね」


「あ、ああ……すんません……」


 広場の空気が、一拍止まった。


 点呼の落ちる先を失った穴の音が、宙で迷う。列の中の一枠が空いた。式次第が欠員を検知した。


 圧の向きが変わった。広場の外へ。


 代わりを探しに行く流れだった。坂の下、登山道の入口の方角へ、整列の圧が触手のように伸び始める。


 七海が顔を上げた。


「下に人がいる。朝の登山の人たち」


「行け」


「言われなくても」


 七海は戸塚さんを俺に預けて駆け出した。

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