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【一話完結】天眼の手は、コーヒーが冷める前に帰る  作者: 七宵 凪
樅ノ沢(もみのさわ)自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている
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樅ノ沢自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている②

 翌朝の五時、琴生駅の北口にはまだ夜の色が残っていた。


 白いセダンが音もなく停まって助手席側の窓が下りた。運転席に氷見がいた。


「おはようございます。後ろへどうぞ」


「組織の運転手は」


「本日は手配がつきませんでした。私が運転します」


 後部座席には先客がいた。七海が窓に頭をもたせかけて片手を振る。


「おはよ、タクマ君。眠そうだね」


「眠いんだよ」


 車は市街を抜けて西へ向かった。槙ヶ崎の市境を越えると道はすぐ山に入る。ヘッドライトの先で杉の幹が次々に流れていった。


 七海が膝の上で指を組んで言った。


「樅ノ沢ってさ、昔は市内の小学校がだいたい行ってたんだって。二泊三日の林間学校。多い年は延べ二万人」


「四十年で延べ数十万人です」


 氷見がハンドルを切りながら数字だけ足した。


「朝のつどいってのは、何をやるんだ」


「市の資料に式次第が残っています。整列。点呼。誓いの言葉。ラジオ体操。連絡事項。解散。六項目、所要二十分。一回の利用団体はおおむね二百人。つどいの広場は、その人数が整列できる広さに作られています」


「六時半から二十分か。健全な朝だな」


「健全でした。三年前までは」


 氷見は前を向いたまま言った。ヘッドライトが杉並木の根元を順に照らしていく。


「で、三年前に閉鎖。建物の老朽化と利用減。閉所式みたいなのは」


「ありません。市の告知文書が一枚出て、進入路にチェーンが張られました。それだけです」


「式の好きそうな施設のくせに、自分の終わりには式をやらなかったわけだ」


 口に出してから、自分の言葉が思ったより重く座席に残った。七海が横目でこっちを見た。


「タクマ君、たまに核心から言うよね」


「たまたまだよ」


 道が細くなって勾配がきつくなる。六時を回った頃、空の端が薄い灰色になり始めた。氷見が速度を落とした。


「進入路です」


 道の脇に錆びたチェーンが張られていた。その手前に軽トラックが一台、寄せて停めてある。荷台に脚立と工具箱が見えた。


「戸塚さんの車です」


「契約日じゃないんだろ、今日」


「違います」


 氷見はそれだけ言って車を降りた。チェーンをまたいで、舗装の割れた進入路を三人で上る。山の朝の空気は刺すように冷えていた。氷見の言ったとおりだった。


 進入路は思ったより長かった。子供の足で十五分、と氷見が言った。バスを降りた子供たちが二列で歩かされた道だ。舗装のひびから草が伸びて、ガードレールの白は半分が苔の色に変わっていた。三年でこうなったのか、それとも閉鎖の前から少しずつこうだったのか。


 途中に炊事棟の屋根が見えた。屋根の下にかまどが並んで、焦げ跡だけが黒く残っている。その先にファイヤーサークルの丸い石の囲い。組まれるはずの薪はなく、囲いだけが朝の薄闇に沈んでいた。施設というのは、人がいなくなっても形だけは律儀に残るものらしい。


 並木の杉の間に、褪せた看板が立っていた。ようこそ もみのさわへ。木の板に彫られた文字の塗料が剥げて、彫りの溝だけが文字の形を覚えていた。


 坂を上りきると視界が開けた。


 つどいの広場。


 白線の薄く残る地面。旗のない掲揚柱。正面に低い朝礼台。その向こうに二階建ての宿泊棟が朝の薄闇の中で黙っていた。


 広場の真ん中に、男が一人で立っていた。


 グレーの作業着。六十代の背中。両腕を体側につけて、爪先を揃えて、まっすぐ前を向いている。気をつけの姿勢だった。


「戸塚さん」


 氷見が声をかけた。男の首がゆっくりとこっちを向いた。困ったような笑いが顔に浮かんだ。


「ああ……どうも。市の方ですか」


「関係者です。こんな時間に何を」


「いや、その」


 戸塚さんは自分の爪先を見下ろした。爪先は白線の上に正確に乗っていた。


「もうすぐ、始まるんで」


「何がですか」


「……分からんのですわ。分からんのですけど、始まるんですわ」


 困った笑いのまま、声だけが細かった。立っている姿勢は崩れない。崩れないのではなく崩せないのだと、近づいてみて分かった。足首から下が地面に縫いつけられたように動いていない。


 俺は腕時計を見た。六時二十八分。


 空気が変わり始めた。


 風もないのに広場の温度が一段下がる。白線の薄れた地面の上に、見えない何かが等間隔で並び始める気配がした。


 戸塚さんの背すじが、さらに一段伸びた。本人の意思ではない伸び方だった。骨の並びだけを正される、定規を当てたような直立。


 七海が小さく言った。


「来るよ」


 六時半。


 式が、始まった。

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