樅ノ沢自然の家の広場には、二百人分の返事が揃っている①
夕方の五時を回ると、店の窓から差す光が琥珀色になる。
俺はカウンターの内側でグラスを拭いていた。拭き終わったグラスを棚に戻して次のグラスを取る。考えなくても手が動く仕事は嫌いじゃない。客は窓際に一人。マスターは奥で豆の在庫を数えている。
常連の引けた時間帯で、店は静かだった。豆の匂いと、グラスの鳴る小さな音と、新聞をめくる音。この店の夕方はだいたいこの三つでできている。
ドアベルが鳴った。
氷見透華と七海昴が並んで入ってきた。
氷見は黒髪を背中に流して背すじをまっすぐに立てている。七海は明るい色の短い髪を夕方の光に透かして俺に片手を上げた。
「タクマ君、おつかれ」
「いらっしゃいませ」
俺は店員の声で返した。二人はカウンターの席に並んで座った。氷見がブレンドを頼み七海がカフェオレを頼む。マスターが奥から出てきて豆を挽き始めた。
氷見は注文を済ませると一拍も置かずに口を開いた。
「緒方さん。依頼があります」
「俺いまバイト中なんだけど」
「五分で終わります」
「業務連絡の方が早いって顔だな」
「事実です」
七海がカウンターに頬杖をついて笑った。
「氷見さん、お店の中でもそれなんだ」
「七海さん。本題に入ります」
氷見は手帳も何も出さない。全部頭に入っている話し方をする。
「槙ヶ崎市立、樅ノ沢少年自然の家。市の林間学校施設です。三年前に閉鎖されています」
「閉まってる施設の何を剪定すんだよ」
「閉鎖は、されています。ただ──解散は、まだしていません」
グラスを拭く手が止まった。
「何だそれ」
「毎朝六時半。施設のつどいの広場で、朝のつどいの式次第が動いています。整列。点呼。誓いの言葉。誰もいないのに、です」
「待て。式次第が動くってのは、具体的に何がどうなるんだ」
「広場に入った者の身体が動かされます。整列の位置に立たされ、点呼に返事をさせられる。式の進行に必要な役を、その場に居合わせた身体で埋める形です」
「人手の足りない式典が通行人を徴用してるわけか」
「そういう理解で合っています」
「……誰もいないなら勝手にやらせとけば済む話に聞こえるけどな」
「管理人がいるんだ」
七海が引き取った。
「市から委託されてるおじさんでね。月に何回か建物を見に行くだけの仕事のはずなんだけど。いまは契約の日じゃなくても、朝になると足が山を上るんだって」
「……」
「そのおじさんね、習ったことのない誓いの言葉、そらで言えるんだ」
七海の声は軽いままだった。軽いまま、嫌なところだけ正確に刺してくる。
「ボクは登山道の方から拾ったんだ。あの山、広場の横を朝の登山の常連さんが通るんだけどね。挨拶の声が聞こえる気がする、誰もいないのに、って話がぽつぽつ回ってて。先週はとうとう、通りかかった人が三十秒くらい気をつけの姿勢で固まったんだって。氷見さんは病院の方から」
「医療顧問経由です。管理人の戸塚和也さん、六十六歳。声帯の酷使と早朝の軽度低体温で受診しています。受診のきっかけは奥様だそうです。声を嗄らして帰る朝が続いて、本人は風邪だと言い張った。その風邪が三週間続いたので、奥様が連れて行きました。本人の供述に、点呼、という語が繰り返し出ました。照合した結果、同一の施設でした」
「二方向から同じ山に矢印が刺さったわけだ」
「はい。顕在化しています。放置すれば戸塚さんの身体がもちません」
氷見の声は平坦なままだった。平坦なまま、急ぎの案件だと分かる速度で言葉を並べてくる。
マスターがコーヒーを二つ、音を立てずに置いた。氷見が頭を下げて七海が「ありがと」と言った。
「で、俺は何時にどこへ行けばいい」
「明朝五時に琴生駅の北口へ。車を出します。式は六時半に始まります」
「五時……」
俺は天井を見た。めんどくせえ。口には出さなかったが顔には出たと思う。七海がカフェオレを一口飲んで笑った。
「タクマ君、顔に出てる」
「出すだろ。朝六時半の式に出席しに行くんだぞ」
「出席じゃないよ。終わらせに行くんだよ」
七海はそう言ってから、ふむ、と小さく息を吐いた。
「式というものは、終わりまで含めて式であるからね」
一瞬だけ声の調子が変わった。古い言い回しがするりと混ざって、すぐに元の声に戻る。
「ってことでさ、よろしくね」
二人はコーヒーを飲み終えると伝票を置いて立ち上がった。氷見が出口で半歩だけ振り返る。
「緒方さん。明朝は、冷えます」
それだけ言って出ていった。上着を持ってこいという意味だと三秒後に分かった。
俺はグラスを拭き終えて、奥のマスターに声をかけた。
「マスター。明日の朝、ちょっと出てきます」
「はい、行ってらっしゃい」
マスターは豆の袋から顔も上げずにそう言った。




