カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない⑦
店に戻ると、もう客はいなかった。
「マスター、戻りました」
「お帰り」
マスターはカウンターの内側で、最後のグラスを拭いているところだった。俺の方は見ない。見ないまま、コーヒーの缶に手を伸ばす。
「いかがですか」
「もらいます」
俺は客側のスツールに腰を下ろした。カウンターの内側じゃなく、外側に座る日もある。マスターはそれを、何も言わずに受け入れる。湯を沸かす音が静かな店に広がった。雨上がりの夜の湿った匂いが、扉の隙間から薄く入ってくる。
やがて、目の前にカップが置かれた。湯気がまっすぐ昇っている。
俺はそれをすぐには飲まなかった。冷めるのを、少しだけ眺めた。
コーヒーは勝手に冷めていく。
誰かに、ゆっくり冷めろと言われたわけじゃない。隣のカップと同じ速さで冷めろと言われたわけでもない。湯気の立ち方も、冷め方も、このカップのものだ。注がれた湯の量と、店の気温と、カップの厚みで、冷める速さが決まる。それだけで決まる。フロアの平均に合わせて、冷め方を均されたりはしない。
あのフロアは、四十人を一つの速さに揃えようとしていた。出ている者を削って、平らにしようとしていた。揃っていることを正しさにして、一人だけ速いのを間違いにしていた。速いことが、罪みたいになっていた。
コーヒーは、そんなことをしない。
誰の速さにも合わせない。隣がどう冷めようと知ったことじゃない、という顔で、自分の速さで冷めていく。速く冷めるカップもあれば、ゆっくり冷めるカップもある。それでいい。それぞれの速さで、冷めればいい。
俺は、湯気が薄くなった頃に一口飲んだ。まだ温かかった。
俺の仕事は、これが冷めるまでに帰ってくる。それだけだ。誰かのペースに合わせて、急いだり遅れたりするわけじゃない。俺の速さで出かけて、俺の速さで帰ってくる。早すぎも遅すぎもしない、俺の速さで。それで、ちょうど間に合う。
楢原が、明日、自分の速さを許せるかどうかは分からない。何週間か、また合わせる癖が抜けないかもしれない。速く打つたびに、申し訳ないような気がして、また少し頭を下げるかもしれない。それでも、外から押さえる手はもうない。あとは本人の手の中の話だ。返した分を、本人が受け取るかどうか。それは、俺の仕事じゃない。
二口目を飲んだ。苦さがゆっくり喉を落ちていく。
「面倒な仕事でしたか」マスターが、グラスを棚に戻しながら、ぽつりと言った。
「殴る相手がいない仕事は、だいたい面倒です」
「そうですか」
マスターはそれ以上は訊かなかった。含みのある顔もしない。ただ、棚のグラスを、一つずつ、いつもの位置に戻していく。それぞれのグラスを、それぞれの場所に。
窓の外を見た。
雨上がりの空に雲が切れて、北の方に、丸い光が見えた。月より少し小さい、動かない光。誰も、その光に、もっと速く回れとも、隣の星に合わせろとも言わない。ただ、そこにある。一つだけ、自分の速さで、そこにある。
俺はカップを両手で包んだ。
明日も、たぶん、こういう一日が続く。誰かが頭を出して、誰かがそれを削ろうとして。そのたびに、めんどくせえと言いながら、俺は出かけて、コーヒーが冷めるまでに帰ってくる。
最後の一口をゆっくり飲み干した。
ちょうど、いい温度だった。




