カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない⑥
俺は、フロアの中を漂っている力の束に、もう一度、方向を渡した。
今度は誰かの頭へ集める方向じゃない。どこへも揃わない方向だ。一番高い杭を探す代わりに、どの机も、どの手も、それぞれの速さでいい、という方向へ、力をばらけさせる。揃っていることが正しさだった水面を、平らなまま保つ理由を消す。高さがあっていい。速さが違っていていい。そういう方向へ、束をほどく。
束は行き先を失った。失ったまま、薄く、フロア全体に散っていく。半年かけて積もった羨みの結晶が、結晶でなくなる。ただの、誰の心にもある薄い感情に戻る。明日また少しずつ積もるかもしれない。だが、今夜のところは、結晶は溶けた。
フロアの空気から、張りが抜けた。
均しの力は、もう、楢原の頭を探さない。外から掛かっていた手は、剥がれた。
残ったのは、楢原が自分で自分の頭を押さえている手だけだった。
俺は図面に向かう楢原の正面に立った。監査員の顔は、もう作らなかった。
「楢原さん」
「……はい」
「あんたが、ここ数週間で削られてた分は、あんたのものだ」
楢原が顔を上げた。
「あんたの手が速いのも、線が正確なのも、あんたが積み上げたものだ。隣の連中が羨ましがってんのは、あんたが返してもらっていいものなんだよ。誰かに遠慮して、差し出すもんじゃない」
「でも、俺が、出しゃばると」
「出しゃばってんじゃない。あんたが速いだけだ」
俺は楢原の机の上の図面を指した。途中から平らになっていた線。その線が、もう削られていないことに、楢原はまだ気づいていない。
「外から掛かってた分は、剥がした。もう、あんたの頭を押さえる力はない。だが──あんたが、自分で自分を平らにすんのを、やめるかどうかは、俺にはどうにもできない。それは、あんたの仕事だ」
楢原はしばらく図面を見つめていた。引きかけの線の先を、ずっと見ていた。
「……速いと、嫌われると思ってました」
「嫌われるかもな」
俺は否定しなかった。隣の連中の羨みが消えたわけじゃない。明日もたぶん、誰かは楢原を羨む。
「嫌われるかもしれん。けど、嫌われたくないからって、自分の速さを自分で削るのは、別の話だ。あんたが遅くなったって、隣の誰かが速くなるわけでもない。誰も得しない。あんたが一人、削れていくだけだ」
楢原はゆっくりと、キーボードに手を置いた。
打った。
さっきまでとは、速さが違った。迷いのない、一息の速さだった。誰の拍子にも合っていない、楢原自身の速さだった。指が、自分の行きたい方向へ、迷わず進んでいく。
楢原の指が止まった。止まって、自分の手を見た。
「……これ、俺の、速さですよね」
「ああ」
「遅くなったんじゃ、なかったんだ」楢原は短く息を吐いた。「合わせてたんだな、俺。ずっと。自分で」
その先を楢原がどうするかは、楢原次第だった。明日も、フロアの拍子に合わせて、また頭を下げるかもしれない。下げないかもしれない。俺が決めることじゃない。剥がせる手と、剥がせない手がある。俺が剥がせるのは、外から掛かった分だけだ。
俺はそれ以上は言わなかった。名乗りもしなかった。監査の確認は終わりました、とだけ告げて、島を離れた。
廊下に出ると、氷見が待っていた。
「終わりましたか」
「外から掛かってた分はな。あとは、本人の問題だ」
「……そうですか」
氷見はそれ以上は訊かなかった。エレベーターのボタンを押して、扉が開くのを待つ。古いエレベーターが、また軋みながら上がってくる。
「お疲れ様でした」
いつもの別れの一言だった。ただ、語尾の最後の一拍が、ほんのわずか、長かった。
俺は何も言わずに、エレベーターに乗った。
六階から地上へ降りる間、めんどくせえ仕事だったな、とだけ思った。殴る相手も、説き伏せる相手もいない仕事。剥がせるのは、外から掛かった分だけ。あとは本人が、自分の速さを、自分で許せるかどうか。
ビルを出ると、雨はすっかり上がっていた。




