カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない⑤
俺は、フロアの拍子の一番下にある音へ、声を合わせた。
詠唱は力む剪定じゃない。力場の方へ、こちらの方向を渡す行為だ。波立たない水へ、別の流れの向きを、そっと差し込む。逆らうんじゃない。流れを書き換える。
「ここに在る力に告ぐ
方向を持つ全ての流れに告ぐ
高さを削り、低きへ揃える均しよ
抜きん出た分を奪う束よ
削り取った縁を、元の持ち主へ返せ
ここに在る『抜きん出てはならない』という言葉を
俺が、ばらける方向に、解す」
最後の一行を発音した瞬間、フロアの空気がぐらりと傾いた。
張っていた水面が緩んだ。揃っていた手の拍子の残響が、ばらばらの速さに戻り始める。机の一つ一つが、それぞれの速さを取り戻していく。楢原の頭の上に集まっていた力がほどけていく。削り取られていた線の質が、楢原の手の中へ戻っていくのが見えた。引きかけていた平らな線が、迷いのない一息の線へ書き換わっていく。手前で止めていた筆圧が、すっと先まで伸びた。
いける、と思った、その直後だった。
ほどけかけた力が、行き場を失った。
四十人分の羨みは、まだ床に残っている。均しの方向だけがほどかれた。だが、均そうとする力そのものは、すぐには消えない。一番高い杭を削るのが、その力の本能だ。楢原の頭の上から外された力は、すぐに次の杭を探した。下げる相手がいなくなった手が、別の下げる相手を探すように。
フロアの隅の机で、一人、残業していた若い社員がいた。楢原の次に、仕事の速い人間だったらしい。
均しの力が、その社員の頭の上へ束になって滑った。
……次を削る気か。
社員がふと手を止めた。打とうとして、打てない。さっきまでの楢原と同じ顔になりかけた。指が宙で迷い始める。
考える前に、手が動いた。
俺は指先で、空気を斜めに弾いた。社員の頭へ向かう力の束を、その手前で九十度ねじる。向かっていた方向を、横へ逸らす。束は向かう先を失った。誰の頭にも届かない方向へ、力が逃げる。社員の指がふっと軽くなった。本人は何が起きたかも分からないまま、また鍵盤を叩き始めた。速さが戻っている。本人の速さが。
息をつく間もなかった。
逸らした力は消えたわけじゃない。行き場を探して、フロアの中を漂っている。一番出ている杭へ戻ろうとする。引力みたいに、高いところへ吸い寄せられる。
そして、フロアで一番出ている杭は、今も、楢原だった。
力が、楢原の頭の上へ戻ろうとした。
返したはずの線が、また削られかけた。楢原の手が、再び平らな拍子へ引き戻されていく。せっかく戻った一息の線が、また真ん中へ落ちていく。
なんで戻る。
俺は楢原を見た。
楢原は戻された手を、抗っていなかった。
むしろ、自分から頭を下げていた。
削られた線が戻ってきた瞬間、楢原は、その戻ってきた速さを、自分で抑え込もうとしていた。速く動けることに、怯えるみたいに。出しゃばらないように。合わせるように。半年かけて身につけた癖が、外から返された分を、内側から押し返している。手が、せっかく取り戻した速さを、自分で平らにしにいく。
外の力をほどいても、楢原が自分で自分を均し続ける限り、均しの力は、楢原の頭の上を「一番出ている杭」だと認め続ける。本人が手を挙げてしまっている。ここを削ってくれ、と。
いくら外から返しても、本人が受け取りを拒んでいたら、戻らない。返した端から、本人が突き返してくる。賽の河原だ。
……そういうことか。
俺は舌打ちを一つした。
めんどくせえ。本当に、めんどくせえ。
外から掛かった分は、もう、ほとんど剥がした。残っているのは、楢原が自分で自分の頭を押さえている手だけだ。
その手は、俺には剥がせない。
剥がせないが──伝えることはできる。




