カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない④
日が暮れて、フロアの人数が減るのを待った。
定時を過ぎると、四十人は少しずつ帰っていった。帰り際、誰も特別なことをしない。画面を閉じて、椅子を戻して、鞄を持って、エレベーターに乗る。挨拶の声まで、同じ高さで、同じ長さだった。お疲れさまでした、が判で押したように繰り返される。あの薄い羨みを、誰一人、顔に出していない。出していないどころか、自分が何かを羨んでいる自覚すら、たぶんない。だからこそ性質が悪い。自覚のない感情は、剥がしようがない。
楢原は残っていた。係長は最後まで残るものらしい。窓際の島で、削られた線を引き直そうと、まだ図面に向かっている。引いては消し、引いては消し、を繰り返している。自分の線がどこで平らになるのか、もう感覚で分かってきているのかもしれない。だから、平らになる手前で、何度も引き直している。氷見は廊下で、人払いの役を引き受けていた。
フロアに人影がまばらになった頃、俺は島の中央へ歩いた。
空気の張りが強くなった。
水面の下に潜るような感覚だった。耳の奥に、四十人分の手の拍子がまだ残響している。速くもなく遅くもない、一つの速さ。その拍子が、俺の輪郭にも触れてきた。
……来たか。
頭の中の思考がすっと平らになりかけた。鋭く考えようとした端から、その鋭さが削られていく。誰が考えてもおかしくない、平らな考えに均されていく。フロアが、俺の頭にも手を伸ばしていた。よそ者だろうが関係ない。出ているものは削る。一番高い杭の次に高い杭も、その次も、順番に削って平らにする。そういう力だった。
力場というより、平らな水だ、と思った。深さも温度も均された、どこまでも平らな水。何かが浮き上がろうとすると、水の方が上から押し返してくる。沈めて、均して、なかったことにする。
俺は息を吐いて、削られかけた思考をそのまま放っておいた。
均そうとする力に抗って力むと、力んだ分だけ削られる。出ようとするほど、押し返しが強くなる。だから力まない。けだるく、頭の真ん中を平らなまま通す。波を立てない。出る杭にならない。
「……めんどくせえな」
声に出して言うと、少しだけ頭の芯が戻った。けだるさは、たぶん、この水と相性がいい。出しゃばらないけだるさは、削るものを見つけられない。皮肉な話だった。普段は褒められたものじゃない気質が、ここでは盾になる。
力場の正体ははっきりした。
これは誰か個人にぶら下がっている力じゃない。フロアの床に、机に、四十人が半年かけて積もらせた羨みが、結晶になって張り付いている。場所に居着いた淀みだ。だから誰を殴っても消えない。羨んでいる本人たちですら、自分が何を積もらせたかを知らない。明日も何食わぬ顔で出勤して、また薄く羨んで、また少しずつ積もらせる。誰も悪くない顔のまま、フロアは人ひとりを削り続ける。
均しの力は、フロア全体から、楢原一人の頭の上へ集まっていた。一番出ている杭が、一番削られる。今は楢原が、その杭だった。
俺は図面に向かう楢原の背を見た。引いては消し、を繰り返す、丸まった背中を。
本人は、自分が削られていることに、半分気づいて、半分頷いている。あの頷きを、外から無理やり剥がすことはできない。それは楢原の問題だ。俺の権能で動かせるのは、力の方向であって、人の頷きじゃない。
だが、外から掛かっている力の方は別だ。
四十人分の羨みが作った水面を、俺はばらけさせることができる。揃っていることが正しさになっている、その「揃い」をほどく。削り取られた分を、元の持ち主へ返す。
それが俺の仕事だった。
俺は両手を軽く下ろした。フロアの拍子が、耳の奥でまだ鳴っている。その拍子の、一番下の音に呼びかける。
やるか。




