カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない③
監査の確認、という名目で、俺は楢原を給湯室まで連れ出した。
フロアの拍子から距離を取ると、楢原の表情が少しだけ緩んだ。水面の下から、頭の半分だけ出したような顔だった。給湯室の蛍光灯は一本切れかけていて、じじ、と細かく明滅している。
「昇進されたそうですね」俺は世間話の体で切り出した。「半年前に」
「ええ。まあ、運が良かっただけです」楢原は紙コップに茶を注ぎながら言った。「同期はみんな優秀ですよ。たまたま俺の出した設計が、続けて通っただけで」
たまたま、を、楢原は二回言った。
「速かったんでしょう。あなたの仕事」
「……どうですかね」楢原の手が紙コップの縁で止まった。「速いっていうのは、別に、いいことばかりじゃないですから」
「というと」
「一人だけ先に出来上がっちゃうと、こう……浮くんですよ」楢原は薄く笑った。「周りはまだやってるのに、お前だけ終わってるのか、みたいな。露骨に言われるわけじゃない。ただ、空気がね。だから最近は、なるべく合わせるようにしてて」
合わせる。
その一言がこの件の根だった。
俺は茶を一口飲んだ。ぬるかった。
「合わせてるつもりは、あるんですね」
「ありますよ。出しゃばらないように。係長になったからって、調子に乗ってると思われたくないし。昇進したのも、別に、俺が偉いわけじゃないんで」
「で、合わせてたら、合わせなくても、手が遅くなった」
楢原がこちらを見た。乾いた笑いがすっと消えた。
「……なんで、それを」
俺は答えなかった。代わりにフロアの方へ目をやった。壁一枚を隔てて、四十人分の手が、同じ拍子で動いている。
からくりはもう見えていた。
誰か一人が楢原を妬んで異能を振るっている──そういう単純な話ではない。フロアの四十人が、それぞれ、ほんの少しずつ、楢原を羨んでいた。あいつだけ速い。あいつだけ評価される。あいつだけ先に終わる。一人ひとりの中では、口にも出さない、薄い薄い感情だ。本人たちも気づいていないかもしれない。妬みというより、ちょっとした胃のあたりのざらつき。その程度の。
だが、四十人分のざらつきが、半年かけてフロアの空気に積もった。
積もったものは、やがて一つの形になった。
──抜きん出るな。
頭を出した者を、平らな水面まで押し戻す力。出た分を削り取って、フロアの平均に均す力。それが楢原の手の速さをフロアの拍子まで引き戻していた。線の質を、誰が引いてもおかしくない平らな線に削っていた。揃っていることそのものが、ここでは正しさになっている。一人だけ速いのは、間違っていることになっている。そういう淀みだった。
性質が悪いのは、加害者がいないことだった。
四十人の誰も、強い悪意を持っていない。誰も楢原を潰そうとは思っていない。残業の隣で「あいつ羨ましいな」と一瞬よぎる、その程度のものだ。それでも薄い羨みの総和が勝手に、人ひとりの手を削っている。
そして、もっと性質が悪いのは──楢原自身が、削られることに半分頷いていたことだった。
出しゃばらないように。合わせるように。楢原は、フロアが押し戻すより先に、自分で自分の頭を下げ始めていた。外から掛かる力と、内から下げる手が噛み合っている。二つが噛み合っているから、削れ方が速い。
「楢原さん」
「はい」
「あんた、自分の仕事が速いのは、悪いことだと思ってるか」
楢原は答えに詰まった。
その詰まり方が答えだった。
「……速いのは、いいことのはずなんですけどね」楢原は紙コップを握り潰した。「最近、それがよく分からなくなってて。速く出すと、なんか、申し訳ないような気が」
分からなくさせられてるんだよ、と俺は思った。だが、口には出さなかった。今ここで言っても、たぶん届かない。
めんどくせえ仕事だ、と改めて思う。殴って終わる相手がいない。説き伏せて終わる相手もいない。フロア全体を相手にして、しかも当の本人が、半分、削られる側に加担している。
やるしかないか。




