カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない②
カナエ技研は、駅前から五分ほど歩いた雑居ビルの六階に入っていた。
雨は道すがら小降りになって、ビルに着く頃には傘の要らない霧雨に変わっていた。氷見は俺の半歩後ろを一定の間隔で歩いた。歩幅も、足音の間隔も、ずっと変わらない。会話はない。会話のない時間を、この女は気詰まりだと思わないらしい。
「中に入る口実は」
「設計の外部監査、ということになっています」氷見が言った。「組織が手配しました。フロアには入れます。ただし緒方さんが何をするかは、誰も知らない」
「いつものやつだな」
「いつものやつです」
古いエレベーターが軋みながら六階まで上がった。扉が開くと、空気の質が変わった。
静かだった。四十人がいるはずのフロアが咳一つ立てずに動いている。キーボードを叩く音。紙をめくる音。マウスを置く音。そのどれもが同じ間隔で鳴っていた。速い者も遅い者もいない。早く打つ者も、ゆっくり打つ者もいない。全員が同じ拍子で手を動かしている。
オフィスというのは、本来もっと雑多な音がするものだ。誰かの電話。誰かの舌打ち。早く終わらせたい者の苛立った打鍵と、間に合わない者の慌てた打鍵。そういう速さの違いが混ざり合って鳴っているのが普通だ。
ここには、その違いがなかった。
……揃いすぎている。
俺は揃った音の正体を、すぐには言葉にしなかった。ただ、フロアの空気が目に見えない水面のように張っているのを感じた。誰かがその水面より上に頭を出そうとすると、押し戻される。そういう張り方だった。机の並びも、書類の積み方も、どこか平らに均されている。
窓際の島に、一人だけ、拍子から外れかけている男がいた。
三十代の後半だろう。痩せ型で、ワイシャツの袖を肘までまくっている。机の上には設計図面が広げられ、その脇にコーヒーの紙コップが三つ、空のまま積まれていた。残業の名残のようにも、焦りの名残のようにも見えた。
男はキーボードに手を置いて、止まっていた。打とうとして、打てない。指が宙で迷っている。何かを取り戻そうとして、取り戻せない手だった。
「楢原さんです」氷見が小声で言った。「楢原健介さん。係長」
俺は男に近づいた。監査員の顔をして、図面を覗き込むふりをする。
「これ、あなたが」
楢原は顔を上げた。目の下に濃い隈があった。
「ええ……すみません、今、手が、追いつかなくて」
声に妙な薄さがあった。怒りでも焦りでもない。自分の鈍さに、もう半分慣れかけている者の声だった。
「前はもっと速かったんですけどね」楢原は乾いた笑いを口の端に乗せた。「最近どうも、調子が出なくて。歳ですかね」
歳じゃない、と思った。
俺は図面に目を落とした。線は正確だった。けれど、途中から急に、線の質が落ちていた。最初の数本は、迷いのない一息の線。それがあるところから、周りの誰が引いてもおかしくない、平らな線に変わっていた。上手いとも下手とも言えない、ちょうど真ん中の線だった。
線が削られている。本人の手の中で、勝手に。
楢原がもう一度、キーボードに指を置いた。速く打とうとしたのが横から見ても分かった。指が走りかけた。
次の瞬間、楢原の指がつっと減速した。誰かが上から押さえたように。本人は気づいていない。気づかないまま、フロアの拍子に指が合っていく。速さが平らに均されていく。
「……すみません、何の話でしたっけ」楢原が眉を寄せた。「今、一瞬、聞こえなくて」
視界と聴覚が一段濁る。氷見の言ったとおりだった。
俺は楢原から少し離れて、フロア全体をもう一度見渡した。
誰か一人が楢原を狙って手を下している──そういう手応えではなかった。フロアの全員がただ自分の机に向かっている。誰も楢原を見ていない。視線一つ、楢原に向いていない。なのにフロアそのものが楢原の頭を押さえていた。
これは、誰か一人がやってるんじゃない。
厄介な方だ、と俺は思った。




