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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない
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カナエ技研の開発室には一つの速さしか流れていない①

 その日は朝から雨で、店に客は一人もいなかった。


 俺はカウンターの内側でグラスを拭いていた。拭くほどの汚れもないグラスだった。手が勝手に動く。考えなくても布が回る。窓の外では雨が琴生の駅前通りを灰色に濡らしていた。傘を差した人影がたまに一つ二つ、通りを横切っていく。


 マスターは奥でコーヒー豆の缶を並べ替えている。話しかけてはこない。この店はだいたい、こういう静けさで回っている。湯の沸く気配と、雨の音と、布がグラスを滑る音。それだけで一日が過ぎる日もある。


 時計が三時を回った頃、扉の鈴が鳴った。


 氷見透華が立っていた。黒髪を肩の先まで真っ直ぐ落として、紺の上着の肩に雨の粒を乗せている。傘は差していなかったらしい。濡れた肩を気にする様子もない。雨に降られたという事実を、ただ運んできただけ、という顔をしていた。


「緒方さん」


「……いらっしゃい。コーヒーでいいか」


「お構いなく」


 お構いなく、と言いながら、氷見はカウンターの端のスツールに腰を下ろした。座る所作に迷いがない。背筋が椅子に対して垂直に伸びている。俺はグラスを置いて、豆を挽き始めた。挽く音だけがしばらく店を満たした。


「依頼か」


「依頼です」


 氷見は鞄から一枚のメモを出して、カウンターに置いた。会社の名前と、住所と、それだけ。装飾のない字だった。定規で引いたような、まっすぐな横棒が並んでいる。


「琴生駅前の雑居ビルです。カナエ技研。計測機器の設計を請け負う、四十人ほどの会社です。その開発室で」


 一拍あった。


「一人だけ、仕事ができなくなっていく人がいます」


 俺は挽き終えた豆をフィルターに移した。湯を細く落とす。湯気がまっすぐ昇って、天井の手前で消えた。


「できなくなる、ってのは。病気か」


「いいえ」氷見は首をわずかに横へ動かした。「その人はできる人です。半年前に係長に昇進している。社内で一番速くて、一番正確だった。それがここ数週間で、手が、周りと同じ速さでしか動かなくなりました」


「同じ速さ」


「速く動かそうとすると止められるんです。本人の意思とは関係なく。指先が、フロアの平均まで引き戻される」


 ……抜きん出ると、削られる。そういう話か。


 俺はカップを二つ出して、片方を氷見の前に置いた。お構いなく、と言った相手の分も淹れる。氷見はそれを断らなかった。断らないことがこの女なりの礼の返し方らしかった。


「組織の観測網が拾いました」氷見は続けた。「最初はただの不調として処理されかけた。けれど、その人が速く動こうとした瞬間に、視界と聴覚が一段濁る、という症状が出ています。身体に実害が及んでいる。だから顕在化案件として、私が」


「誰かがやってるのか。その、削るってのを」


「それがはっきりしません」


 氷見の声が一段、業務の輪郭からはみ出した。


「一人の異能ではない、と観測網は言っています。フロア全体に薄く乗っている。だから私には、現場で誰を見ればいいのか、判断がつかない」


「だから俺か」


「だから、緒方さんです」


 雨はまだ降っていた。


 めんどくせえ、と思った。大の大人が四十人、隣の机が速いのが気に入らねえ、なんて話だとしたら、これ以上めんどくさい仕事もない。


 だが、手を削られる側はたまったものじゃないだろう。


 俺はコーヒーを一口飲んで、カップを置いた。温い苦さが喉を通る。


「マスター、ちょっと出てきます」


「はい」奥から、缶を置く音と一緒に声が返った。「行ってらっしゃい」

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