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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている⑦

 喫茶店に戻ったのは、二十三時を少し回った頃だった。


 町外れの方の道は、もう車もまばらだった。雨はとうとう降らなかった。湿った夜気だけが、店の前の街灯の光の中に、薄く滲んでいる。


 ドアを開けると、店の中は片付けの途中だった。窓際の文庫本の客も、奥の学生の客も、もういない。マスターが奥のカウンターで、グラスを一つずつ拭いている。さっき俺が拭いていたのと同じグラスかもしれない。あるいは、別のグラスかもしれない。


「戻りました」


「お帰り」


 マスターはそれ以上は言わなかった。


 俺はエプロンをフックから外そうとして、止めた。営業時間はとっくに終わっている。代わりに、カウンターの内側ではなく、客側のスツールに腰掛けた。


 マスターはグラスを拭く手を止めずに、こちらをちらりと見た。


「コーヒー、いかがですか」


「ください」


 マスターはグラスを置いて、コーヒーの支度を始めた。


 七海はカウンターの俺の隣のスツールに腰掛けて、両肘をついていた。両手をポケットから出している。さっきまでの仕事の後の姿勢で、けれどもう仕事中の声音ではない。


「タクマ君」


「ん」


「コーヒー、冷めた?」


「だろうな」


「ボクの分、最初に出してくれたやつ。あれ、まだ、ボクの席にある?」


 マスターが奥の方から、空のカップを軽く持ち上げてみせた。


「先ほど、お下げしました」


「冷めてた?」


「冷めておりました」


 七海は肩をすくめた。


「タクマ君、ボクの『あとで』、ひとつだけあった」


「何だ」


「あのコーヒー、飲み切ってから出るつもりだった。タクマ君が動いた方が早くて、忘れて出た」


「それは、廊下の方じゃなくて、お前の中だけの『あとで』だ」


「だね」


 七海は短く笑った。


 マスターが新しいカップを目の前に置いた。湯気が、立ち上る。


 俺は両手でカップを包んで、湯気をひとつ覗き込んだ。


 コーヒーは、まだ熱い。これから冷めるところだ。


 保留したものは、いつかは流す機会を失う。三十年分の「あとで」のように、場所に積もって、誰も受け取れなくなる。それを今夜、廊下から外へ流した。流したものは戻ってこない。誰が、何を、どこへ伝えようとしていたかも、もう分からない。


 ただ、これからの「あとで」は、その人の中で動く。書きたい人は書く。書かない人は書かない。書かない選択をしたとしても、それはその人が選んだことであって、廊下が奪ったことではない。


 俺はカップに口をつけた。


 熱い。


 コーヒーは、これから冷める。冷めるのは、決まっていることだ。冷めるまでの時間の中で、俺は店に戻ってきている。今夜、向井さんが本のページを進めたように。今夜、看護師長が胸元に手を置いたように。冷めるまでの時間の中で、それぞれが自分の場所にいる。


 保留ではない。


 ただの、冷却だった。


 七海はカウンターに片肘を残したまま、もう片方の手で、自分のパーカーのポケットを軽く触っていた。中に何か入っているわけではないらしい。ただ、ポケットに手を入れる前の動作だけ。


 マスターはカウンターの内側で、別のグラスを拭き始めていた。


 北の方の窓から、空の薄い光が見えた。月よりやや小さい、丸い光。動かず、消えず、形も変わらない。今夜もそこにある。


 俺はコーヒーをもう一口飲んで、カップを置いた。


 明日も、たぶん、この店のドアが開いて、誰かが入ってくる。マスターが「いらっしゃい」と言う。客が席に着く。注文をする。出された飲み物が、冷めていく。冷め切る前に、客は出ていく。


 そういう一日が、続く。


 あの廊下が、もう誰の「頼もう」も吸わなくなった以上、たぶん、誰かが何かを今夜のうちに思い出して、明日の朝に伝える。そのことは、俺の仕事ではない。


 俺の仕事は、コーヒーが冷めるまでに、帰ってくる。


 それだけだった。

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