凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている⑥
ナースステーションに戻ると、看護師長は申し送り表のページを軽く整えていた。
俺たちが立ち止まるのに気づいて、顔を上げた。
「終わりましたか」
「ええ。たぶん」
「たぶん、というのは」
「夜が明けてからの方が、はっきりすると思います。今夜、もし夜勤の間に廊下を通ることがあったら、消火栓のあたりで、何か頼みごとの気持ちが抜ける感じが、するかどうか、確認してみてください」
看護師長はうなずいた。
「もしも、抜けるようでしたら」
「もう抜けないと思います。ですが、念のため」
「分かりました」
看護師長はそれから少し沈黙した。
申し送り表のページの、一番上の付箋──「向井静子様 夜間廊下通過時の記憶混乱の訴え 継続観察」と書かれた付箋を、指先で軽くなでている。
「あの。市役所の方なのに、こんなことを、お聞きしてはいけないと思うのですが」
「どうぞ」
「私が、書こうとして書けなかったものは、どこへ行きましたか」
俺は少しの間、答えなかった。
看護師長の手元の付箋は、たぶん書けた方の「あとで」だ。継続観察、という形で残っている。書けなかった方の「あとで」が、廊下の壁に積もっていた分の中に、どれくらい看護師長自身の分が混じっていたか、俺には判定できない。
「外側に、流しました」
「外側、というのは」
「あの廊下の中には、もう、ありません。空気の中に薄く散らしました。誰かが受け取る形でも、誰かが思い出す形でも、なくなっています」
「私が、書こうとして」
「あなたが、もう一度書きたいと思ったら、書いてください。それは、廊下に積もっていたものとは、別のものです」
看護師長は短くうなずいた。
うなずいた後、片手で自分の胸元を軽く押さえた。さっき廊下の方を指差した時と、同じ位置の手の置き方。今度は何かを言いかけて止めた仕草ではなく、何かを胸の中に薄く置いた仕草だった。
俺と七海は会釈をして、ナースステーションを離れた。
四〇八号室の前を、もう一度だけ通った。
ドアは閉まっていた。読書灯の薄い光が、ドアの隙間から廊下に細く漏れている。中で本のページが繰られる音が、一回だけ聞こえた。向井さんが、本を一ページ進めた。それだけだった。
俺は立ち止まらずに通り過ぎた。
消火栓の前を通った。空気の質は、もう何も変わって見えなかった。さっきまでそこにあった、横から差し込まれてくる小さな圧力は、もう感じない。三十年分の「あとで」が無くなった廊下は、ただの古いリノリウムの廊下だった。
ナースステーションの前を抜けて、エレベーターホールの方へ向かった。
エレベーターは旧館側のものは止まっていて、本館側のエレベーターを使うために、連結部の廊下を通る。連結部に入ると、本館側の白い蛍光灯の光が、再び目に入ってきた。空気の温度がわずかに変わる。
七海は俺の半歩後ろを、両手をポケットに突っ込んで歩いていた。
「タクマ君」
「ん」
「ボク、廊下を歩いている間、ちょっとだけ、自分の中の『あとで』、確認してた」
「で」
「あんまり、無かった」
「ふうん」
「ボクの三十年分は、まだ、薄い」
七海は少し笑った。
声音が、擬装の方ではない、もっと素朴な方の笑い方だった。
俺はエレベーターのボタンを押した。表示は三階で止まっている。
「向井さんは、明日、看護師長に『今までありがとうございました』って、言うかな」
「分からん」
「ボクも、分からない」
「言わないかもな」
「言わないかもね」
「言わなくても、それで、いい」
俺はエレベーターの扉が開くのを待ちながら、ぼんやりとそう思った。
あの三十年分の中に、看護師長が「書こう」と思ったまま書かなかったものや、向井さんが「言おう」と思ったまま言わなかったものが、どれだけ混じっていたかは、もう、分からない。流した後の廊下の空気には、何も残っていない。流したものはひとつも、誰のものに戻すこともできない。
けれど、廊下が誰の「頼もう」も吸わなくなったから、明日からは、看護師長は書きたい時に書ける。向井さんは言いたい時に言える。書くか書かないか、言うか言わないかは、その人たちが選ぶ。
あの廊下に、もう、その選択を奪う仕組みはない。
エレベーターの扉が開いた。
乗り込みながら、俺は壁の時計をもう一度見た。二十二時二十三分。
病院を出る頃には、二十三時を回るだろう。喫茶店までの帰り道で、コーヒーは、もうほとんど冷めているはずだった。




