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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている⑤

 俺は廊下の中央に立った。


 ナースステーションの方向と、四〇八号室の方向の、ちょうど真ん中。両側に病室の扉が並ぶ位置。消火栓の前。


 手のひらを廊下の床と平行に開いて、両側の壁に向かって軽く意識を伸ばす。三十年分の「あとで」の膜が、薄く重なってこちらに応答する気配。応答する、と言っても、力場が主体的に動くわけではない。ただ、こちらが意識を向けると、膜の方も「ある」と返してくるだけ。それで充分だった。


 息を吸う。


「ここに在る力に告ぐ」


 声は静かに出た。


「方向を持つ全ての流れに告ぐ」


 廊下の空気が、わずかに動いた。


「ここに積もった、三十年分の『あとで』よ」


「書かれなかった、伝えられなかった、保留されたままここに残された、全ての『あとで』よ」


「お前たちの境界を、お前たち自身の外へ、流せ」


「ここに在る『場所が引き受けた保留』という言葉を」


「俺が、場所から、外へ、流す」


 最後の一行を発した瞬間、廊下の空気が一度たわんだ。


 壁の膜が、内側から薄く剥がれ始めた。


 はらりと一枚、また一枚。重なっていた「あとで」が、層ごとに分かれて、廊下の上の方へ、ゆっくりと立ち昇っていく。目に見えるわけではない。ただ、その「立ち昇り」の方向が、空気の中の圧力の動きとして俺の身体に伝わってくる。


 うまく流れた。


 半秒だけ、そう思った。


 その半秒後、廊下の奥、四〇八号室の側から、空気の流れが反転して戻ってきた。


 戻ってきた流れの中に、こちら側の「外へ流す」とは違うベクトルが乗っていた。剥がれかけた膜のうちのいくつかが、廊下の外へ流れるのを拒否して、近くの「受け取り手」を探し始めている。


 四〇八号室の方向。


 向井静子の病室の方向。


「タクマ君」


 七海の声が、一瞬だけ普段より低くなった。


「向井さんの方に、戻ろうとしてる」


 知ってる、と返す前に俺は動いていた。


 廊下の床に対して右斜め下、四〇八号室の扉のすぐ手前。そこに、剥がれかけの膜の一束が、まだ廊下の外へ向かわず、四〇八号室の扉の内側へ吸い込まれようとしている。向井さんが、向井さんの中の保留と廊下の保留を、自分の内側で受け止めようとしている。さっき俺の前で言った「忘れていたものを、思い出すのが、怖いんです」の延長で、廊下の保留を自分の側に呼んでいる。


 俺はそれを許さない。


 左手を四〇八号室の扉の手前に向けて、空気の中の流れを軽く弾いた。ベクトル操作。剥がれかけの膜の進行方向を、九十度ねじって、扉の方向から廊下の外側、窓の方向へ逸らす。膜は窓の外を抜けて、夜の空気の中へ薄く溶けていく。


 同時に、右手を廊下の中央側に伸ばす。


 残りの膜が、四〇八号室の方向以外──ナースステーションの方向と、隣の四〇七号室、四〇九号室の方向にも、同じ動きを取り始めていた。受け取り手を探している。看護師長を、別の病室の患者を、新しい受け止め先として吸い込もうとしている。


「七海」


「うん」


「廊下の両端の患者の方の境界を、内側から押し返してくれ。膜が病室の方に入らないように」


「了解」


 七海がパーカーのポケットから両手を抜いて、廊下の両端、ナースステーション側と病室側の方向に、軽く両手を広げた。七海の周りの空気が、薄く張りつめる感じがした。境界を内側から押し返す、というのは、七海が病室の内側にいる入院患者の輪郭を一時的に薄く補強して、外側からの吸引を拒否させる処置だった。


 膜は廊下の外への道を失った。


 俺は両手をもう一度、廊下の中央に向け直した。


 二度目の詠唱に入る。


「ここに在る力に告ぐ」


「方向を持つ全ての流れに告ぐ」


「行き先を失った『あとで』よ」


「お前たちは、受け取り手を、外側に探した」


「外側の受け取り手は、もう、ない」


「お前たちの行き先を、空気の中に、薄く、解放せよ」


「ここに在る『誰かに引き受けてほしい』という言葉を」


「俺が、誰でもない方向に、流す」


 二度目の最後の一行を発した瞬間、廊下の中の膜が、ばらりとほどけた。


 今度は受け取り手を探さなかった。一枚ずつ、廊下の上方へ、天井へ、天井の向こうの空気へ、薄く広がって消えていった。


 数秒で、廊下は静かになった。


 壁の時計は二十二時十一分を指していた。


 俺は片手で、軽く首を回した。三十年分を流すのは、それなりに重い。詠唱二度ぶんの負荷が肩に薄く残っている。けれど、致命的な疲労ではなかった。


 七海が両手をパーカーのポケットに戻した。


「タクマ君、終わった?」


「ああ」


「四〇八号室の方は」


「向井さんは大丈夫だ。膜は窓の外へ逸らした」


「タクマ君」


 七海が振り向いた。素の方の声だった。


「ちょっと、優しかった」


「面倒くさかっただけだ」


 七海は何も言わずに肩をすくめた。

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