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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている④

 病室を出ると、廊下の方は時刻が変わっていた。


 壁の時計は二十二時を二分過ぎていた。看護師長は気を利かせてナースステーションの内側に下がり、こちらを見ない位置で書類を整理している。同じ階の入院患者は、半分くらいが消灯済み。半分くらいが、消灯前の最後の身支度の物音を、わずかに立てている。


 俺と七海は、ナースステーションの斜め前あたりに立った。


 廊下の奥、消火栓のあるあたりから、四〇八号室の手前まで。さっき看護師長が指差した区間。光の質も床の色も、見た目には他の場所と何も変わらない。ただ、見ようとして見ると、その数メートルの廊下の奥行きが、わずかに深い。


「タクマ君、近づいてみる?」


「ああ」


 俺は廊下を歩き始めた。七海は少し離れて、後ろから付いてくる。


 通常の廊下の部分を歩いている間は、何も感じなかった。


 消火栓の手前で、空気の質が変わった。


 目に見えるものは何もない。けれど、足を踏み出すたびに、空気の中に「あとで」「明日でいい」「いつでもいい」という小さな圧力が、横から差し込まれてくる感じがした。意志を持って踏み込めば抗えるが、何も考えず歩いていたら、自然に「まあいいか」の方へ流れる傾斜があった。


 区間を抜けた。


 四〇八号室の手前で立ち止まって、後ろを振り返る。七海はちょうど消火栓のあたりで立ち止まって、廊下の壁を片手で軽く触っていた。


「タクマ君、この壁。聞こえるよ」


「何が」


 七海が振り向いた。声音が一段、素に近い方に揺れていた。


「『あとで』が、たくさん。重ねて。三十年分」


「具体的には」


「『あとで申し送りに書こう』、『あとで先生に伝えよう』、『あとで家族に電話しよう』、『あとで主任に相談しよう』」


 七海が指で壁を軽くたたく。たたくたびに、たたいた音とは別の、小さな反響が壁の奥から返ってくる気がした。


「『あとで』のうち、八割は書かれた。一割は誰かが思い出して片付けた。残りの一割が、書かれずに流れた」


「その一割が」


「ここに、積もってる。三十年で、それなりの量」


 七海はパーカーのポケットから片手を抜いて、壁の前で軽く広げてみせた。


「ボクが見たくらいだと、判定が早かったんだ。書かれずに流れた『あとで』の中にも、性質の違うものが混じってる。本当に忘れてもよかったやつと、忘れちゃいけなかったやつ」


「割合は」


「八対二、ってとこ。忘れちゃいけなかったやつが二割」


 二割。それなりの数だ、と思った。


 俺は廊下の中央に戻った。さっき通った区間の真ん中あたり。立ち止まって目を閉じる。


 空気の中の「あとで」の圧力が、今度はもっとはっきり感じられた。圧力自体は弱い。けれど、密度がある。三十年分の保留が、ひとつひとつ薄い膜のように、廊下の床と壁と天井に張り付いている。膜と膜の間には、誰の保留かもう判別できない、ただの「あとで」の堆積。


 目を開けた。


「七海」


「ん」


「これ、流すしかない」


「うん」


「ただ、向井さんの言ってた『今までありがとうございました』──ああいうのは、流しちゃいけない部類だ」


「タクマ君、それ、どう分けるの」


「分けない」


 七海が首を傾げた。


「分けない、というのは」


「廊下の側に積もってる『あとで』を全部流す。流した後に、廊下を通った人間の中に残るものは、その人間の中で動き直す。動き直したものが、その人の口から出るかどうかは、その人の問題だ」


「タクマ君、それ」


「廊下に積もってるのは、その人の意志じゃない。その人が一度『あとで』と思って、書かなかった、伝えなかった、残しただけのもの。元々その人のものじゃなくなったやつだ。元々その人のものじゃなくなったやつを、その人の代わりに、場所に残しておく仕組みが、ここの『あとで』だった」


 俺は廊下の壁を見た。


「場所に残しておくのが、ここでもう終わる。建て替えが決まったから。残しておけなくなった『あとで』が、通る人間の方の『頼もう』を吸い始めた。仕組みとしては、そういう逆流」


「うん」


「だから、廊下の側を、空にする。その人の中にもし伝えたいものが残ってるなら、その人自身が、今度は『あとで』にしないで、口に出すかどうかを決める」


「タクマ君、わりと、優しいね」


「優しくない。面倒な分け方をしないだけだ」


 七海は小さく笑った。素の方の笑い方だった。


 俺は壁の方を向き直って、両手を一度、軽く広げた。


 詠唱の準備を始める。

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