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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている③

 四〇八号室は廊下の突き当たりから二つ手前の個室だった。


 ドアを軽くノックすると、中から穏やかな声が返ってきた。


「どうぞ」


 看護師長が先に入って、軽く事情を伝えた。市役所の建て替え調査の方、夜間の廊下の使用状況の聞き取り、できれば五分ほど──そのあたりまでを、流れるように整えてから、看護師長は会釈をして部屋を出ていった。


 病室の中は薄暗い読書灯だけが点いていた。


 ベッドの上半分が起こされていて、その背に持たれかかるように、向井静子は座っていた。六十一歳。元小学校教諭。グレーがかった白髪を肩のあたりで切り揃え、夜用のカーディガンを羽織っている。膝の上には文庫本が伏せて置かれていた。本のタイトルは見えなかったが、栞の挟まり方からして、半分ほどまで読んでいるらしかった。


「夜分にすみません」


 俺が頭を下げると、向井さんは小さくほほえんだ。


「いえ。本を読むくらいしか、することがありませんから」


 声は穏やかで、抑揚も小さい。元教諭の話し方、というよりは、教諭という肩書きを十年単位で離れてから、もっと別の話し方を身に着けた人の声、という感じだった。


「向井さん、夜の廊下のこと、看護師長さんから少し聞いていて」


「ええ」


「ご本人として、どんな感じが、しますか」


 向井さんは少し首を傾けた。


「変な、感じです」


「変な、というのは」


「言葉が、戻ってこないんです」


 向井さんは膝の上の文庫本に視線を落とした。指先で、栞の端を軽くなでている。


「夕食を食べた後、消化のために、少し廊下を歩くんです。歩いて、ナースステーションの前まで戻ってくる頃には、頭の中で何かを思い浮かべている。あの先生に、これを聞こうとか。明日の検査の前に、これを頼んでおこうとか。そういう、頼みごとを」


「ええ」


「それが、ナースステーションのカウンターに着くと、声に出せないんです。中身は、覚えているんです。あの先生の顔も、頼みたい内容も、はっきり覚えている。ただ、口を開く気持ちの方が、戻ってこない」


「戻ってこない、というのは」


「歩く前は、確かに、頼もう、と思っていたんです。歩いて廊下の途中まで来た時には、もう少しで頼むぞ、と思っている。なのに、途中の数メートルを通り終わると、急に、別にいつでもいいような気が、してくる。明日でいいんじゃないかと。来週でもいいんじゃないかと」


 向井さんはまた首を少し傾けた。


「明日になっても、来週になっても、私は同じことを思って、また廊下を歩いて、同じところで気持ちが抜けるんです。看護師長さんは、書いておこうと思って書けなくなる。私は、頼もうと思って頼めなくなる。なんでしょう、これは」


 俺はベッドの脇のパイプ椅子に腰掛けた。七海は壁際に立ったまま、両手をパーカーのポケットに突っ込んで、向井さんの方を見ている。


「向井さん、この病院、長いですか」


「外来は、三十年以上。入院は、今回が初めてです」


 長い、と思った。三十年。看護師長の言っていた「半年前から顕在化」の半年というのは、症状が出る前の長い時間を背景に持つ。


「外来でも、廊下を歩かれたことは」


「ありますよ。診察の待ち時間に、長い廊下を歩いて、また戻ってくる」


「その時には、何も」


「何も、ありませんでした。ここ半年です。あの廊下が、変になったのは」


 俺は廊下の方を、病室のドアの向こうを、軽く意識した。


 扉の外、消火栓のあたり。三十年分の「あとで」が、半年前の建て替え告知をきっかけに、自分が場所から消えると気づいて、通過する人間の「頼もう」を吸い始めた。看護師たちが三十年積み重ねてきた「申し送りに書こう」「先生に伝えよう」「家族に連絡しよう」のうち、書かれずに保留されたまま流れていったもの──それが廊下の床と壁に節を作り、建て替えで消されると分かった瞬間に、もう聞き届けられないと確定して、通行者の同種の意志を吸い込むようになった。


 言葉にすると単純だが、構造としては根が深い。


「向井さん」


「はい」


「私が、廊下の方を、少しだけ静かにします。たぶん、明日からは、廊下を歩いても、気持ちの方が戻ってこなくなる、ということは、なくなる」


「あの、それは」


「夜間調査の一環、ということで」


 向井さんはまた小さくほほえんだ。


「教師をしていた頃に、こういう感じの、口の上手な人を何人か知っていました」


 俺は黙って、頭を下げた。


 向井さんは栞の端をなでる手を止めて、ベッドの上の自分の手をじっと見た。


「あの。ひとつだけ、お願いしても、いいですか」


「どうぞ」


「私が、明日、ちゃんと、頼みごとを口にできるようになったら。看護師長さんに、『今までありがとうございました』って、ちゃんと、伝えたいんです」


 向井さんは顔を上げた。


「それまで、忘れていたものを、思い出すのが、怖いんです」


 部屋の中の空気が、薄く震えた気がした。


 俺は答えなかった。向井さんもそれ以上は言わなかった。

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