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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている②

 凪浦総合病院は、海寄りの古い町並みを抜けた先にあった。


 旧館は本館の隣に立つ五階建ての、コンクリートの色が古びた建物だった。一階の窓越しに、新しい受付フロアの明るさが見える本館とは、廊下の連結部だけで繋がっている。連結部を抜けると空気が変わる。本館側の蛍光灯の白さに対して、旧館の照明は黄色みがかっていて、廊下の床のリノリウムも、つま先で踏むと少しだけ硬い音がする。


 夜の二十一時を過ぎたところだった。


 俺と七海は本館の通用口から入った。事前に組織側で連携が取れているのは、夜勤の看護師長一人。組織との繋がりは持たないが、瞳の組織が地域包括ケアの会議経由で薄く接点を作っている関係性で、今夜の旧館四階の見学に協力してもらえる手はずになっていた。


「お疲れさまです」


 ナースステーションの内側にいた看護師長が、立ち上がって俺たちを迎えた。五十代の女性で、紺色の制服の上に薄手のカーディガンを羽織っている。視線が一瞬、七海の方で止まった。


「ええと、お聞きしていた方々で」


「凪浦市役所からの夜間調査の方です」


 七海が事前の擬装をスムーズに出した。市役所の建物管理課の調査員、という設定で、建て替え前の老朽箇所点検の同行という名目になっている。看護師長は短くうなずいた。


「四階の旧館側、いつものことなんですけれど、二十二時を過ぎると、患者さんが、廊下で立ち止まる回数が増えるんです」


「いつから、ですか」


「半年くらい前、でしょうか。建て替えの正式告知の頃から。それまでは、もっと、漠然とした感じだったんですが」


「立ち止まる時、患者さんは何か言いますか」


「『あ、何を取りに来たんだっけ』って首をかしげる方が、多いです」


 俺は廊下の方を見た。


 ナースステーションから奥に向かって、リノリウムの廊下が伸びている。突き当たりは個室。手前から三つ目あたりまでは、両側に病室の扉。最初の十メートルほどは通常の廊下だが、その先、看護師長の指差した辺りから、空気の質が少し違って見えた。


「あの辺り、ですか」


「ええ。あそこの、消火栓のところから、四〇八号室の手前まで。ほんの五メートルくらいです」


 看護師長は片手を廊下に向けたまま、もう片方の手で自分の胸元を軽く押さえた。職業的な仕草ではない。何かを言いかけて、止めた時の手の位置。


「私も、夜勤の時、あの区間で」


「何が、ありましたか」


「『今夜中に、申し送りに書いておこう』って思っていたことを、ナースステーションに戻った時に、思い出せないことが、何度か」


「中身は、覚えているんですか」


「中身は、覚えています。誰に伝えるか、も、覚えています。ただ、『書こう』っていう気持ちの方が、抜けるんです。書かなくちゃ、と思っていたのが、書かなくてもいいような気がしてくる」


 七海が小さくうなずいた。視線が床に落ちた。観察者の素が、一段だけ滲んだ。


「タクマ君、これね」


「ああ」


 俺もうなずいた。七海の言っていた具象は、ほぼそのままの形で出ている。


「向井さん、ですよね。今夜、見ていただきたいのは」


 看護師長が確認するように言った。


「ええ。乳がん術後の経過観察で入院中の、向井静子さん」


「最近、夕食後に何度か廊下を歩かれていて、そのたびに『あの先生に伝えようと思ってたことが、戻ったら抜けてるんです』って、ナースステーションで首をかしげていらっしゃいました」


「ご本人は、何かに気づいて」


「気づいていらっしゃいます。ご本人の方から、『私、最近、おかしいんでしょうか』と」


 俺はちらりと、看護師長の手元を見た。職業的に整った字で書かれた申し送り表。その一番上の欄に、小さく付箋が貼ってある。「向井静子様 夜間廊下通過時の記憶混乱の訴え 継続観察」と書かれていた。


「向井さん、起きてますか」


「起きていらっしゃいます。読書灯をつけていらしたので」


「お会いしても」


「どうぞ。お通しします」


 看護師長は短く笑顔を作ったが、最後の一拍だけ、その笑顔の中に薄い疲労が見えた。


 俺は廊下の方を見た。


 廊下の途中、消火栓のあるあたり。


 空気そのものは何も変わって見えない。ただ、見ようとして見ると、その数メートルだけ、廊下の奥行きが他の場所より少しだけ深い気がした。立ち止まる人の影が、何重にも重なっているような、見え方。


「面倒くせえな」


 俺は呟いた。七海は何も言わなかった。

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