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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている
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凪浦総合病院の旧館には届かない頼みごとが積もっている①

 雨が降りそうで降らない夕方だった。


 窓の外の空はぼんやり灰色で、湿った空気がドアを開けるたびに店の中に入ってくる。客は二人。窓際で文庫本を開いている年配の男性と、奥の席で大学のノートを広げている学生。どちらも顔は知っているが名前は知らない。


 俺はカウンターの内側でグラスを拭いていた。


 もう何度拭いたか分からないグラスだった。手に馴染んだ動作で、考えることもなく布が動く。マスターは奥の流しで、何かをゆっくり洗っている。お湯を出す音が、店の奥で薄く続いている。


 ドアベルが鳴った。


 顔を上げる前から、誰が入ってきたか分かった。靴音が軽い。歩幅が一定でない。普通の客の入り方じゃない。


「やあ、タクマ君」


 七海昴がカウンター越しに俺の正面に立っていた。明るい色の髪を、後ろで軽くまとめている。今日はカジュアルなパーカーにジーンズで、大学生にしか見えない格好。両手をパーカーのポケットに突っ込んだまま、首を傾げて俺を見ている。


「いらっしゃい」


「コーヒー、お願いします」


 マスターが奥から短く返した。七海はカウンターのスツールに腰掛けて、両肘をカウンターについた。注文の前に座る、というのは普通の客ではない。けれどマスターは何も言わずに、カップを一つ用意し始めた。


「タクマ君、グラス、何回拭くつもり?」


 七海が俺の手元を覗き込んできた。


「もう乾いてるよ、それ」


「拭くのが仕事じゃない。拭いてる時間が仕事だ」


「ふうん」


 七海が笑った。素ではない、擬装の方の笑い方。


 マスターが七海の前にコーヒーを置いた。七海は両手でカップを包んで、湯気を一回だけ覗き込んだ。それから、声を一段落とした。


「タクマ君、ちょっと、頼みたいことがあって」


 来た、と思った。


 七海が砕けた口調のまま、声だけを少し抑える時。これがいつもの依頼提示の合図だった。俺はグラスをカウンターに置いて、布を畳んだ。


「どこ」


「凪浦」


「具体的には」


「凪浦総合病院の旧館。あの、海寄りの古い方の建物。来年、取り壊しなんだって」


「で、何が」


 七海はカップを置いて、両肘をついたまま、俺をまっすぐ見た。


「あの病院の旧館。夜の二十二時から二十三時の間。廊下の途中で、頼みごとが、忘れられるんだ」


 俺は布を畳む手を止めた。


「もう一回」


「頼みごとが、忘れられる。忘れる、じゃなくて、忘れられる」


 七海が同じ言葉を二度言った。声音が、擬装の砕けた口語の中に、もっと素朴な響きを混ぜている。本気の依頼提示の時の、あの境目の声だった。


「主体がずれてるな」


「うん」


「廊下の途中、ってのは」


「四階の旧館の廊下、ナースステーションから一番奥の病室の手前までの、ほんの数メートル。そこを夜の一時間だけ通ると、通った人の中から、何かを誰かに頼むつもりだった、っていう記憶の一部が抜ける」


「全部じゃないのか」


「全部じゃない。頼みごとの中身は残ってる。誰に頼もうとしてたか、も残ってる。ただ、頼もう、っていう気持ちの方が、抜ける。だから、廊下を通り終わった頃には、その人は、頼もうとしてたことを覚えていても、頼まなくなる」


 俺はマスターを見た。マスターは黙ってカウンターの自分の側にいる。聞こえているはずだが、何も言わない。


「面倒くせえな」


 七海がそれを聞いて、肩をすくめた。


「面倒くさいやつだよ。三十年分」


「三十年」


「廊下に、三十年分の『あとで』が、積もってる」


 俺は少しの間、何も言わなかった。


 三十年。マスターの店がここにあるよりは、長いだろうな、と頭の隅で思う。マスターはその数字を聞いて、奥の流しの方で、お湯の音をひとつ止めた。流しの位置から、こちらに何か言うわけではない。ただ、聞いていた、という気配だけ残して、また別の動作を始めた。


 七海がカップに口をつけた。湯気はもうあまり立っていない。


「タクマ君」


「ん」


「これね、ボクが一人で見てもよかったんだけど」


「うん」


「あの廊下、通る人によって、抜けるものが、ちょっとずつ違う感じがするんだ。ボクが見たくらいじゃ、判定が、まだ早かった」


 声音が擬装と古風の間で少し揺れた。素の声ではない。素ではないが、いつもの軽さよりも一段ほどけている。


「で、俺を呼んだ」


「そう」


「面倒くさい呼び方すんなよ」


「面倒くさい仕事だから、呼んだ」


 俺はエプロンを外して、カウンターの脇のフックにかけた。


「マスター、ちょっと出てきます」


「はい、行ってらっしゃい」


 マスターは振り向かずに、それだけ言った。

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