奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある⑦
琴生まで、また一時間ちょっとかかった。
帰りの電車では、氷見は途中で降りた。組織の協力施設まで、別ルートで合流するためだ。「お疲れ様、でした」と短く別れを告げて、彼女はホームに降りていった。語尾の最後の一拍は、もう、普通の長さだった。
俺は窓に頭をもたせかけて、目を閉じた。
眠るわけではない。
ただ、自分の身体が、自分の歩幅で、自分の決めた方向に、電車に揺られていることを確かめていた。
当たり前のことだ。
当たり前のことが、当たり前ではない場所から帰ってくると、その当たり前の輪郭が、少しだけはっきりと見える。
篠原さんはたぶん、これからしばらく、その当たり前の輪郭を、何度も確かめる。
歩いてみる。
歩幅が、自分の歩幅だと、確かめる。
首を、入り口の奥ではない、自分の見たい方向に、向けてみる。
目を閉じずに、下唇を噛まずに、振り向きたい方向に振り向く。
その繰り返しを、たぶん、何ヶ月か、何年かかける。
外から、完全には、戻せない。
戻ったかどうかを、確かめるのは、本人だ。
俺の仕事は、その手前まで、だ。
琴生駅に着いて、商店街を抜けて、いつもの喫茶店に戻った。
ドアの上の鈴が鳴る音が、いつもの音で、鳴った。
マスターはカウンターの内側で、グラスを拭いていた。
「お帰り」
「ただいま」
俺はカウンターの内側に入って、エプロンを掛け直そうとした。
マスターは、首を、横に振った。
「今日は、もう、こちらで」
マスターはカウンターの客側の、いつもの席に、軽くカップを置いた。
俺はエプロンを掛けずに、カウンターの外側に回って、その席に座った。
コーヒーが、すでに、用意されていた。
湯気が、薄く立っている。
「すいません」
「いえ」
「あんまり、客の方で、座るのは、慣れてないんですけど」
「たまには」
マスターは短く、それだけ言った。
俺はカップを両手で包んで、湯気を、一度、深く吸い込んだ。
コーヒーの匂いの中に、雨上がりの空気の匂いが、薄く、混ざっていた。喫茶店の換気扇から、外の空気が、薄く流れ込んでいる。
俺は一口、コーヒーを飲んだ。
冷めかけている、けれど、まだ、ちゃんと熱かった。
夕方の六時半。
ちょうど、コーヒーが、冷めるまでに、帰ってきたと思った。
自分の歩幅で、自分の方向に、自分が「帰ろう」と思った場所に、自分の足で戻ってきた。
窓の外、商店街の通りに、夕方の人通りがぽつぽつと流れている。みんな自分の歩幅で歩いている。誰の首も、誰の視線も、誰の身体も、勝手な方向に向かされていない。
当たり前のことだ。
当たり前のことが、当たり前のままで、流れていく。
「マスター」
「はい」
「他人の力で、自分の身体の向きを変えられる時間が半年続いたら、人は何で自分を確かめると思いますか」
マスターはグラスを拭く手を、止めずに、少しの間、考えた。
「人によるんでしょうね」
いつものマスターの応対だ。
「ただ」
「ええ」
「自分の足で、自分の好きな方向に歩けるようになったら、その人はいつかは、その人自身の輪郭を思い出すと思います」
マスターはそう言って、グラスを、また拭き始めた。
俺はもう一口、コーヒーを飲んだ。
まだ、熱かった。
北の方角の窓の外に、薄い曇りの隙間から、丸い光が、薄く見えていた。動かない、消えない、形も変わらない、いつもの天眼の光だ。
その下で、誰かが、自分の足で歩き始めようとしている。
完全に戻ったかどうかは、明日、彼女自身が、確かめる。
明後日も、確かめる。
半年振りの確かめ直しに、しばらく、時間がかかる。
俺はそれを確かめに行かない。
俺の仕事は、コーヒーが、冷めるまでに、帰ってくる。
帰ってきて、もう一杯、お代わりを頼む。
それだけだ。
「マスター、お代わり」
「はい」
二杯目の湯気が、立ち始めた。




