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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある
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奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある⑥

 氷見はすでに無線で、所轄警察に連絡を入れていた。


「ご協力、お願いします。位置情報、奥津野駅前。当該、五十五歳男性。容疑、ストーカー規制法違反、傷害(精神的健康被害)の可能性。当該店舗内に在所、抵抗の意思は、現時点ではなしと推定。お願いします」


 氷見の口調は、いつもの業務口調に戻っていた。


 短い指示を終えて、彼女は俺の隣に立った。


「五分で、二名、来ます」


「分かった」


 俺は真壁の方を、もう一度、見た。


 彼はまだ、俯いていた。


 彼の異能は、元の境界に戻された。彼にはもう、特定個人の身体の方向と注意を歪めることは、できない。気配を抑える程度の、本当に弱い異能保有者として、彼は、これから残りの人生を過ごす。


 異能の使用記録は、瞳の組織から、所轄警察に、業務的に渡される。篠原さんの半年分の身体的影響、業務影響、精神的影響については、医療顧問の協力医による診断書として、別ルートで作成される。法的処理は、その後、所轄警察と検察の判断で進む。


 俺の仕事は、その手前まで、だ。


 異能の輪郭を、元の境界に戻す。あとは、人間社会の側で、人間社会のルールで処理する。


「真壁さん」


 俺は彼の顔を、もう一度見て声をかけた。


「あんたがこれから警察と話すことになる」


 真壁は俯いたまま、肩を、薄く震わせた。


「だろうな、と、思ってた」


 彼の声は、薄かった。


「半年前から、たぶん、そうなるんじゃないかと思ってた。けれど自分の中では、これは好意だから、いや、これは違うからと、何度も別の名前で置き換えていた」


「置き換えても、戻らない」


「ええ」


「分かってた」


「ええ」


 真壁は、それから、ようやく、顔を上げた。


 顔を上げた時、彼の目には、半年前から薄く気づいていた、認めたくなかった事実を認めた人間の顔があった。怒りでもなく、恨みでもなく、ただ自分の中の、自分が作っていた名前が外からはっきりと削られた後の顔だった。


「あの人に、伝えてくれ」


「いや」


 俺は首を、横に振った。


「あんたが、あの人に何かを伝える役は、もう、ない。あんたがあの人に対して持ってた『これは好意だ』という名前は、いま、削った。削った後で何かを残しても、それはあの人にとって、新しい負担になるだけだ」


「ええ」


「警察に、本当のことを話せ。それが、あんたがこれからできることだ」


 真壁は、もう一度、俯いた。


 俯いた頭は、震えてはいなかった。


 五分が経つ前に、駅前広場の坂道の方から、白い軽自動車が、ゆっくりと登ってきた。


 所轄警察の二名が、車から降りた。一人は四十代の、もう一人は三十代の、いずれも男性の警察官だった。挨拶を交わして、彼らは商店の入り口の方に進んだ。短く真壁に声をかけて、軽自動車の方に誘導していった。


 手錠はかけなかった。


 真壁は素直に、軽自動車の後部座席に、乗った。


 乗る瞬間、彼は、こちらを、一度だけ、振り向いた。


 彼の目に、何か言いたそうな色は、もう、なかった。


 ただ、自分の中の、自分が作っていた名前が削られた後の、空っぽの何かがこちらを見ていた。


 俺はそれに、特に何も返さなかった。


 軽自動車は、坂道を、駅と反対の方向に、降りていった。




 駅前広場はもう、進む方向を持たない、ただの夕方の田舎の駅前だった。


 空気が、止まっている。


 立っているのは、俺と、氷見、それだけだ。


 遠くで、支線の電車が、ホームに着いた音がした。


 駅舎の中で待っていた年配の男性が、改札のない出口を、自分の歩幅で歩いて、電車に乗り込んでいった。彼は、自分が線路の方向に押されかけていたことを、たぶん、知らない。


 知らなくて、いい。


「お疲れ様でした」


 氷見の声が、薄く、こちらに届いた。


 いつもの業務口調の、いつもの定型句だった。


 ただ、語尾の最後の一拍が、いつもよりほんの少しだけ長かった。


「ああ」


 俺は答えた。


「篠原さんの方、頼む」


「はい。組織の協力施設で、医療顧問の診察を、受けていただきます。半年分の身体的影響と、精神的影響について。離婚協議は、別件として、ご自身の弁護士と、進めていただきます」


「あの店」


「閉店、で、しょうね」


「だろうな」


「奥津野駅の方は、来年の春で廃止予定です。利用者の流れが急に減るわけではありません。住人の方々の当面の生活には、大きな影響はないと想定されます」


 氷見は短く、そう言った。


 業務報告の文面の続きを、口頭で要約している、いつもの調子だった。


 俺は両手をズボンのポケットに突っ込んで、夕方の駅前を、もう一度見渡した。


 ホームの方から、年配の男性を乗せた電車が、走り出していく音がした。


 走り出していく方向はまっすぐだった。


 誰の身体も、誰の歩幅も、誰の視線も、勝手な方向には向かされていない。


 それだけが、今日の俺の仕事の、確かな結果として、残った。


 あとは、コーヒーを、飲みに、帰る。


 それだけだった。

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