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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある
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奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある⑤

 組織のドライバーの車が、駅前に静かに着いた。


 氷見は篠原さんを後部座席に案内した。「お疲れ様でした。少し離れた場所で、お休みください」と短く声をかけて、ドアを閉めた。車は、駅前の坂道を、駅と反対の方向に、静かに走っていく。


 空気の引っ張りが、車の方向には届かない。届く範囲を、出ていく。


 篠原さんは、車の窓越しに、一度だけ、こちらを振り向いた。


 彼女の身体は、振り向く方向を、自分で選んで、振り向いていた。


 車は角を曲がって、見えなくなった。


「では」


 氷見の声が、駅前広場に戻ってきた。


「処理に、入ってください」


「ああ」


 俺は商店の入り口の方に、向き直った。


 真壁は新聞をたたんでいた。たたみ終わって、レジカウンターの上に置いて、ゆっくりと、入り口の方に出てきた。歩く足取りは、駅前広場の空気の引っ張りに、まるで影響を受けていない。たぶん、空気の引っ張りは、彼自身からは出ているのに、彼自身には影響を及ぼさないようにできている。本人の異能が、本人を弾く方向で機能している。


 商店の入り口に立った真壁は、五十代の、平均的な体格の、平均的な顔つきの男だった。


 眼鏡をかけている。


 目は、薄く、笑っていた。


「あんた、何の用だ」


 声は穏やかだった。


「市役所の方なら、ここで、何の調査があるんだ」


 俺は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、彼の方に、二歩近づいた。


「真壁さん」


「はい」


「あんた、自分の異能が、いまどの範囲まで届いてるか、把握してるか」


 真壁の顔から、薄い笑みが消えた。


 消えた後、別の表情が乗った。怪訝そうな、けれど、芯の方で、何かが分かっている顔だった。


「何の話だ」


「あんたの異能は、気配を抑える程度、と、本人は思ってる」


「あんた、誰だ」


「答えてくれ。本当に、それだけだと、思ってるか」


 真壁は答えなかった。


 答えなかった、ということが、答えだった。


 彼の中では、たぶん、半年前から、自分の異能が「気配を抑える」を超えて、何か別のものに届いていることに、薄く気づいていた。けれど、その気づきを、本人は「これは好意の力だ」と、別の名前に置き換えて飲み込んでいた。


 好意の力、というのは、たぶん、本人の中では、罪ではない。


 好意の力ではない、と認めた瞬間、それは、罪になる。


 だから、認めない。


 俺は彼から二歩離れて、駅前広場の中央に立った。


 氷見は俺の三歩横に、立っている。


 ホーム全体に乗っていた空気の引っ張りは、いま、駅前広場の中心、つまり、俺と真壁の間の空間に、収束しつつあった。彼の意識が、俺の方に向かったことで、彼の異能の力場が、俺の方に向かい始めている。


「やります」


 俺は息を、一度、整えた。




 ここに在る力に告ぐ。


 方向を持つ全ての流れに告ぐ。


 拡張された輪郭よ。


 他人の身体を歪ませる方向に張り出した、お前の縁よ。


 お前の本来の境界に、戻れ。


 ここに在る「これは好意だ」という言葉を。


 俺が、お前自身の中の元の枠に、収め直す。




 最後の一行を発した瞬間、駅前広場の空気が、一度、薄く震えた。


 空気の引っ張りが、外側から内側に向かって、薄く収束し始めた。ホーム全体、改札動線、券売機の前、商店の入り口、そういった広がっていた力場が、ゆっくりと真壁本人の方に戻されていく。彼の弱い異能が、彼自身の元の輪郭、つまり「気配を抑える程度」の範囲に縮められていく。


 縮められていく途中で、真壁が、動いた。


 彼は、駅舎の方を、見ていた。


 いや、駅舎の方ではなく、駅舎の奥の改札のないホーム、その先の線路の方を見ていた。


 その視線の方向に、一つ、彼の異能の最後の出力が、走った。


 篠原さんの方向ではない。篠原さんはもう、車で、駅から離れている。届かない。届かないと分かっているから、別の方向に走った。


 線路の方向。


 駅舎の中の、ホームに出る通路に、まだ年配の男性が一人立っていた。電車が来るのを待っている。


 その男性の方に、出力の最後の一塊が、走った。


 空気の引っ張りが、その人の歩幅を、ホームの端、つまり線路の方に引っ張ろうとした。


「ちょっと」


 俺はベクトル操作を、空気の引っ張りそのものに、横から、九十度ねじってぶつけた。


 空気が線路の方向ではなく、ホームの中央の方、つまりその男性の身体を「安全側」に押す方向に向きを変えた。


 男性は、自分が線路に近づいていたことに、たぶん、気づかなかった。彼は普通に、ホームに出てきて、待合室の方を見て、ベンチに腰を下ろした。


 最後の出力は、それで、不発に終わった。


 駅前広場の中央に立っている真壁は、息を、薄く吐いた。


 彼の異能の輪郭は、元の枠に、収まった。


 駅前広場の空気の引っ張りも、ホームの空気の引っ張りも、なくなった。空気が、ようやく、進む方向を持たない、普通の田舎の駅前の空気に戻った。


「俺の名前は、緒方拓真と言います」


 俺は真壁に、もう一度、向き直った。


「あんたの異能は、戻した。これからは『気配を抑える程度』しか、使えない」


「待て」


「待たない」


「待ってくれ。俺は、別に、悪いことを、している、つもりは」


「だろうな」


「俺はただ」


「あんたが、何のつもりだったかは、関係ない」


 俺は彼の目を、まっすぐ見た。


「あんたが、何のつもりだろうと、あの人の身体は、半年、勝手に向かされ続けてた。それは、あの人の身体が、被った事実だ。あんたの中の名前を、何に置き換えても、あの人の半年は、戻らない」


 真壁は俯いた。


 俯いた頭の上に、駅前広場の、進む方向を持たない、ただの夕方の空気が静かに被さっていた。

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