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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある
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奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある④

 俺は氷見と短く打ち合わせて、駅前広場の電柱から、商店の方へ歩いた。


 まず、篠原さんを、商店の入り口から離す。空気の引っ張りの範囲外まで、彼女の身体を、物理的に出す。それから、商店の中の男に話を聞く。順番はそれだ。


 歩きながら、足の裏に押し返してくる「歩幅を縮めろ」という指図を、自分の歩幅で弾き返した。一歩目で半歩分の抵抗を感じる。二歩目で抵抗が薄くなる。三歩目では、もう、抵抗がなくなった。空気の引っ張りは、俺のように意識的に弾く相手には機能しない。意識せず、自分の身体を「ここはそういう場所だ」と思っている相手にだけ、機能する。


 篠原さんは、商店の入り口の段ボールの脇で、もう一度、首を入り口の奥の方に向けかけていた。


 俺は商店の入り口に着く三歩手前で、立ち止まった。


「篠原さん」


 彼女の首が、ふっと俺の方を向いた。今度は、自分の意思で向いた向きだ、と分かる動き方だった。


「あの」


「俺の名前は、緒方拓真と言います。槙ヶ崎市の市役所の関係で、駅周辺の業務調査に来ました。少し、お時間をいただけますか」


 市役所の業務調査、というのは、氷見の側で用意していた擬装だ。彼女が「不審な人物に呼ばれた」と思わない名目を、現場到着前にすり合わせていた。


 篠原さんは少し戸惑った。それから、首を、もう一度、入り口の奥の方に向けようとした。


 向きかけて、止めた。


 止めた後、目を閉じて、下唇の内側を噛んだ。


 二秒。


 目を開けた時、彼女は俺の顔を見た。


「はい。少し、なら」


「ありがとうございます。あちらに、もう一人、職員が来ていますので、少しご一緒に、お話を、伺ってもいいですか」


 俺は駅前広場の方を、軽く指さした。氷見が立っている。


 篠原さんは、立ち上がろうとした。


 立ち上がろうとしたところで、彼女の足が、止まった。


 膝が一瞬、震えた。


 空気が「動くな」と言っている。彼女の身体に対して、商店の入り口から離れる方向に動くな、と。


 俺は彼女の肘の少し上に、左手を、軽く添えた。


 添えながら、有機物操作を、低出力で起こした。膝関節の周りの、こわばっている方向の力を、ベクトルで弾く。彼女の身体が、空気の指図に従って下に押し戻されようとしている、その押し戻しの方向を九十度ねじる。彼女の身体が下にではなく、横、つまり俺の側に、軽く流れる。


「あ」


 彼女は俺の腕に、ほんの少し、もたれかかった。


「すみません」


「いえ。立ちくらみですよね。ゆっくりで、いいです」


 俺は彼女が体勢を立て直すのを待ってから、ゆっくりと、商店の入り口から、駅前広場の電柱の方へ歩を進めた。


 彼女の足取りは、五歩進むまでは重かった。六歩目から、急に軽くなった。空気の引っ張りの境界線を、彼女の身体が越えた瞬間だ。


 越えた瞬間、彼女の足が、止まった。


 足が止まって、肩が、薄く震えた。


 俺は隣で立ち止まった。何も言わなかった。氷見も、こちらに近づいてきたが、声をかけずに、少し離れた場所に立った。


 篠原さんは、しばらく、肩を震わせて、息を整えていた。


 たぶん、自分の身体がいま自分の足で歩いていることに、気づいたところだった。半年振り、というよりは、何年振り、というか。


 自分の足で、自分の歩幅で、自分が「歩こう」と思った方向に歩いている、という感覚そのものに、彼女はようやく再会していた。


 その再会は、屈辱の輪郭を彼女の中で初めて、はっきりと描く瞬間でもあった。


 屈辱は、自分の身体が自分のものではなかったと明確に分かった瞬間に、初めて屈辱の形を取る。それまでは、ただの不調だった、説明できない違和感だった。


「もう、戻りたくない」


 彼女の最初の言葉は、それだった。


 声は震えていた。


「あの店の前に、戻りたくないです」


「戻らなくて、いいです」


 俺は答えた。


「これから、戻らなくていい形に、します」


 彼女は俺の顔を、まっすぐ見た。


 その目には、屈辱のあとに残る固い何かがあった。怒り、というほど熱くもなく、諦め、というほど冷たくもない。たぶん、もう自分の身体は誰にも勝手に動かさせない、という、その人自身の輪郭のような何かだった。


「お願いします」


「はい」


 俺は氷見の方に首を向けた。


 氷見はすでに小型の無線を耳に当てている。


「組織のドライバー、奥津野駅前まで五分です。篠原さんは、車で、駅から離れた場所で、休んでいただきます」


「分かった」


 俺は商店の方を、横目で見た。


 真壁はレジカウンターの奥で、新聞を広げたまま、こちらを見ていた。


 新聞のページはめくられていない。


 彼の目は、俺の方ではなく、俺の隣で立っている篠原さんの方を見ていた。


 その目に、初めて感情の動きが乗った。


 彼の異能が、半年前の閾値を超えた時の感情の動きと、たぶん、同じ種類の動きだ、と俺は思った。


 篠原さんが、彼の側から離れる。


 離れる、という事実が、彼の中で、何かを動かしている。


 空気の引っ張りが、ホーム全体の方向に、一段、強くなった。

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