奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある③
しゃがんでいる女性は、ペットボトルの段ボールを片手で押さえて、もう片手で値札を貼り直していた。
左手の値札の角度が、まっすぐではない。指先が、何度か止まる。止まって、また動く。動いた後で、首の角度が、ふっと商店の入り口の奥の方を向く。入り口の奥には、レジカウンターがある。レジカウンターの奥に、五十代の男性が立っている。新聞を広げて読んでいる、ふりをしている。
ふりをしている、というのが、たぶん、正しい。新聞のページは、彼が広げてから、一度もめくられていない。
女性の首は、その男性のいる方向に、定期的に向かされている。
女性は、その首の動きを、自分の意思だと思っている。
俺と氷見は、商店の入り口から五メートルほど離れた、駅前広場の電柱のそばに立った。
「篠原 美佳さん、三十五歳。あの売店勤務。半年前から、ご自身の身体の不調を、職場の同僚に相談しています」
「店の中の、新聞の人、真壁さん」
「ええ」
「五十五歳。商店主」
「そうです」
「ガキの頃から、あの女の人を、見てたのか」
「経歴を確認しますと、真壁さんは奥津野でお生まれになって、奥津野でお育ちになって、奥津野でお店をお継ぎになっています。篠原さんは、十年ほど前に、ご結婚を機にこの町へ転入されています」
「結婚」
「ええ」
「相手は」
「半年前に、別件で別居中です。離婚協議中。お子さんは、いらっしゃいません」
俺は新聞のページをまためくらない男の方を、横目で見た。
別居が始まったのが半年前。篠原さんの身体の不調が始まったのも、半年前。タイミングが揃っている。
真壁の異能の歪な拡張が、半年前に閾値を超えた、ということだ。
弱い異能保有者は、長年、その異能を、自分が思っているより外側に押し広げ続けてきた。たぶん、対象は、篠原さん一人だ。十年、町に居着いた女性に、本人の中の好意を、異能の形で投げ続けてきた。本人は、それを好意だと思っている。だから、自覚がない。
半年前、篠原さんが結婚生活を畳み始めた瞬間、何かが変わった。たぶん、本人の中の好意の純度が、上がった。本人の意識では「いよいよ自分の番が来た」のような何かが起きた。その上がった分が、異能の出力に乗った。閾値を超えた。
ホーム全体に空気の引っ張りが乗るようになり、改札動線が歪み、店の入り口に立つ篠原さんの首の角度が定期的に、新聞をめくらない男の方を向くようになった。
「篠原さんは、自分の身体に何が起きているか、ご存じなのか」
「お分かりに、なってはいません。ご自身の不調として、ご認識です」
「いいや、それは違うな」
氷見の顔がこちらに動いた。
「気づいてる」
俺は商店の入り口の方を、もう一度見た。
篠原さんは値札を貼り終えて立ち上がった。立ち上がる動作の途中で、上半身が一度、商店の入り口の方を向きかける。けれど、入り口を向く直前で、彼女は意識的にそれを止めて、入り口とは逆の駅舎の方を向いた。
その後、もう一度、彼女の首が、商店の入り口の方を向こうとした。
彼女はそれも止めた。
ただし、止めた後、目を閉じた。
目を閉じている時間は、たぶん、二秒くらい。
目を閉じている間、彼女は口を、ほんの少しだけ噛んでいる。下唇の内側を、上の歯で。痛いくらいに。
「気づいてる」
俺は繰り返した。
「自分の身体が、勝手に向きを変えていることに、気づいてる。自分の不調だと、思おうとしている。だけど、思いきれていない。説明できないだけだ」
氷見は薄く頷いた。
「ご認識の手前、というのは、そういう状態を、含むかもしれません」
「そういう状態を、半年、続けてる」
「ええ」
俺は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
屈辱、というのは、こういう形を取ることがある。誰かに殴られているわけでもない、貶められているわけでもない、暴言を吐かれているわけでもない。ただ、自分の身体が、自分のものじゃない時間がある。説明はつかない、原因は分からない、誰にも言えない、言っても信じてもらえない。それを、半年、毎日、一人で抱えている。
その屈辱は、加害側の自覚のなさによって、いっそう重くなる。
誰も「やっている」と認めていないものを、一人だけ「されている」と感じ続けている。
悪意なら、まだ、戦える。悪意じゃないものに、戦い方を、彼女は持っていない。
「面倒くせえな」
俺は商店の入り口を、もう一度見た。
真壁は新聞のページをまだめくらない。
篠原さんはまためくらない男の方に、首を向けかけて、止めて、目を閉じた。
二秒、噛んだ。
「やるか」
「お願いします」




