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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある
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51/59

奥津野駅のホームには戻されない歩幅がある②

 奥津野駅までは、琴生から槙ヶ崎方面のJRに乗り換えて四十分、そこから単線の支線に乗り換えてさらに二十分かかった。


 氷見は隣のボックスシートに座っていた。膝の上に薄いファイルを置いて、視線は窓の外に向けている。窓の外は田んぼと、その奥に灰色の山と、低い空。話さなければならない事柄はもう全部、喫茶店で渡されている。沈黙が続いても気まずさは出ない。


「真壁商店の店主は、本人の自覚を、お持ちでないようです」


 氷見の声が、向き合いではなく窓の方を向いたまま、こちらに届いた。


「自覚」


「自分の異能を、行使している自覚です」


 俺は腕を組み直した。


「気配を抑える程度の、弱い異能保有者として、瞳の側の記録に残っています。本人にもその程度の自覚はあります。ただ、それが特定の方向に拡張されていることに、本人は気づいていません」


「気づいてない、というより」


「ええ」


「気づきたくない、の方じゃないのか」


 氷見の視線が、窓から、ようやくこちらに動いた。


「ご明察です」


 俺は窓に頭をもたせかけた。


 弱い異能保有者が、長年の積み上げで、自分の異能の輪郭を、自分が思っているより外側に押し広げてしまう。これはよくある形だ、と氷見の口調から分かる。本人は、自分の異能を「気配を抑える程度」だと思い込んでいる。その自己認識のまま、別の方向へ、別の対象へ、異能を使い続けた結果、行使範囲が歪に拡張する。


 歪に拡張した、その先に何があるか。


 氷見は資料の一行を読み上げていた。「特定個人の身体の方向と注意を歪める」。


 好意です、と本人は言うかもしれない。これは、好意だ、と。


 好意が相手の身体の向きを勝手に変える形を取ったら、それは、もう好意ではない。けれど本人の中ではまだ、好意の続きなのだろう。


 面倒くせえな、と心の中で言った。




 支線の電車は、一両編成だった。


 窓の外を、雑木林と、まばらな田んぼと、たまに集落が流れていく。集落といっても、屋根が五つか六つ集まっているだけで、人影は見えない。電車の中は、俺たち二人の他に、年配の男性が一人と、制服姿の高校生が二人乗っているだけだった。


 奥津野、と車内アナウンスが薄い声で告げた。


 俺と氷見はドアの前に立った。


 ドアが開く。


 降りた瞬間に、空気の温度が一段落ちる感覚があった。気温が下がったわけではない。空気の中の何かが、進む方向を持っていない。普通の駅はホームから改札へ、改札から駅前へと人の流れに沿って空気が緩く動いている。奥津野は違った。空気がホーム全体を、ある一つの方向に向かって薄く引っ張っている。


 俺はホームに足を着けて、その引っ張りの方向を確認した。


 駅舎の方向、つまり改札のない出口の方向、そして出口の先の駅前広場の方向だ。広場の左手に、地図で見た「真壁商店」がある。


 空気が、そっちを向いている。


「氷見」


「はい」


「これ、思ったより、進んでるな」


「現場で、お示しした方が、早いかと」


 氷見は先にホームを歩き始めた。


 俺は数歩遅れてついて行った。ホームの真ん中あたりまで来ると、足の運びが少しだけ重くなる感覚がある。重力が増えたわけではない。歩幅を無意識のうちに少し縮めている。


 縮めさせられている、というのが正しい。


 俺は足を止めて、歩幅を意識的に元に戻した。一歩を十センチ大きく取る。すると足の裏が、空気の引っ張りに対して薄く抵抗する。


 空気の方が「お前は、もう少し小さい歩幅で歩け」と言っている。


「氷見、これ、ホーム全体に乗ってるな」


「ええ」


「もう少し、奥に進めば、別の指図が出てくるかもしれない」


「ホーム端から駅前まで、断続的に、複数の指図が観測されています」


 氷見は短く答えて、改札のない出口に向かって歩いていく。彼女の歩幅は変わっていない。空気の指図を本人の輪郭で弾いている。


 俺は自分の歩幅を意識的に保ったまま、後を追った。


 駅舎を出て、駅前の広場に出た時、視線の端に、左手の小さな商店が見えた。


 看板に「真壁商店」と書かれている。


 商店の入り口に、エプロンを着けた女性が、しゃがんでいた。


 いや、しゃがんでいた、というより、しゃがませられている、と言った方が近かった。

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