羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている⑥
俺は本殿の中央から、半歩だけ下がった。
空間の押し返しは、もう来ない。
縁側の七海が、トートバッグを膝の上に戻して、ゆっくり立ち上がった。
桐生さんは、両手で顔を覆ったまま、肩を震わせていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
本殿の中の空気が、ようやく、普通の空気の流れに戻っていく。塩の匂い、米の匂い、古い木の匂い、外から入ってくる土の匂い。それらが、別々のものとして、ちゃんと、分かれて鼻に届く。
俺は縁側のすぐ手前まで下がって、桐生さんの正面、二歩手前で、足を止めた。
桐生さんが、ゆっくり、両手を顔から下ろした。
目尻が濡れていた。眼鏡のレンズも、薄く曇っていた。曇りを、袖口でゆっくり拭った。拭い終わって、眼鏡を、もう一度、鼻の上に置き直した。その動きの一つ一つが、空間の指図ではなく、桐生さん自身の手の動きとして、ちゃんと完了していた。
桐生さんはその目で、本殿の中央の方を、しばらく見ていた。
たぶん、いままで、あそこに立つたびに身体を縛っていた何かが、いま、無い、ということを、確認している。
しばらくして、桐生さんが、低く言った。
「父の祝詞は、私の中に、まだ、あります」
「はい」
「ただ、私の身体は、いま、私の身体です」
「はい」
俺は短く返した。
桐生さんは、しばらく、御扉の方を見ていた。
それから、低く、続けた。
「正直に、申し上げますと」
「はい」
「怖いです」
桐生さんの声が、少し、震えていた。
「七年、父のとおりに上げてきました。その七年で、氏子の方々が、若いのに先代によく似てきた、と言ってくださるようになりました。私は、それで、自分が、宮司として、続けていける、と思っていました」
「ええ」
「明日の朝、父のとおりでないものを上げるとして、それを、氏子の方々が、聞いてくださるかどうか、分かりません。父を、知っている方が、まだ、たくさん、いらっしゃいます。父のとおりでない祝詞を、その方々の前で上げることが、父を、裏切ることに、ならないか」
桐生さんが、両手を、膝の上で、握り直した。
「自分の祝詞、というものが、いま、私の中にあるのかどうか、それも、分かりません。父のとおりを、外したら、何も、残らないかもしれません」
俺はその震えが、止むのを、待った。
桐生さんが、自分の手元を、しばらく見ていた。
それから、ゆっくり、息を吸って、吐いた。
その息の長さは、空間が指定したものではなく、桐生さん本人の長さだった。
「ただ、いま、声が、空中で固まりません」
「はい」
「私の身体は、いま、私の身体です。父の身体では、ありません。父の身体は、もう、ありません」
桐生さんが、目を伏せた。
「父は、父の祝詞を、父の身体で、上げていました。私が、父のとおりに上げたとしても、それは、父の身体ではない以上、父の祝詞には、なりません。それは、たぶん、七年前から、本当は、そうだったのだと、いま、思います」
「明日の朝、私は、自分の祝詞を、上げてみます」
「父のとおりでなくて、いいんですか」
俺はわざと、その問いを差し出した。
桐生さんは、長い息を吐いた。
「分かりません。ただ、父のとおりではないものを、私の身体で上げてみます。それが、私の祝詞かどうかは、上げてみないと、分かりません」
「上げてみるしか、ないですね」
俺はもう一度、短く返した。
縁側の七海が、視線だけで、軽く頷くのが見えた。
桐生さんが、座布団の上で、両手を膝に置いて、頭を下げた。
「ありがとうございました。お名前を、伺っても、よろしいですか」
俺は一拍、間を置いた。
桐生 隆司、と、心の中で、二度、刻む。
桐生 隆司。
桐生 隆司。
二度、刻んで、それから、口を開く。
刻んだ名前は、こっちに残す。声に出す名前は、向こうに残さない。
それで十分だった。
「緒方、と申します。ご縁が、ありましたら」
苗字だけで、十分だ。
下の名前を、この人の中に残す必要はない。この人が、明日の朝、自分の祝詞を上げる時に、思い出すべきは、父の名前と、自分の名前であって、俺の名前ではない。俺の名前は、思い出してもらえない方が、この人の翌朝にとって、軽い。
桐生さんはもう一度、深く頭を下げた。
俺と七海は本殿の縁側から下りた。
玉砂利を踏む音が、いま、ちゃんと、玉砂利の音として、足の裏に返ってくる。歩幅は、自分の歩幅で、自分の重心で、進める。
鳥居の手前で、もう一度、振り返った。
桐生さんは、本殿の中央の方を、座布団の上から、ただ、見ていた。
その背中は、まだ、すっきり伸びてはいなかった。
ただ、伸びる方向に、ゆっくり、解けていく姿勢だった。
たぶん、明日の朝、本殿の中央に立った時、桐生さんは、父のとおりに立とうとはしないだろう。父のとおりに足を運ぼうとはしないだろう。父のとおりに頭を下げようとはしないだろう。
その代わりに、ただ、自分の足で立つ。
そこから始まる祝詞が、声になるかどうかは、明日の朝の桐生さん次第だ。
俺の仕事は、ここまでだ。
七海が、トートバッグを抱え直して、軽く言った。
「タクマ君、コーヒー、冷めるかな」
「もう、冷めかけてるな、たぶん」
俺たちは鳥居をくぐった。
くぐった瞬間、参道の中の空気と、参道の外の空気が、もう、同じ空気の流れの中にあった。坂の上に向かって、午後の風が、塀の外と内を、同じ強さで、吹き抜けていた。




