羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている⑤
俺は本殿の中央で、両足の位置を決め直した。
空間の指図する「正しい歩幅」を一度全部解除して、自分の歩幅で、自分の重心で、立つ。
空間が抗議の圧を強める。
俺はそれを、肩の力で受け止めた。
目を、半分閉じる。
手前の層と、奥の層と、両方を、一度に呼びかける。
息を吸う。
その呼吸の長さも、空間が指定してこようとする。それを、無視する。自分の長さで吸って、自分の長さで止めて、自分の長さで吐く。
言葉を、出す。
「ここに在る力に告ぐ
方向を持つ全ての流れに告ぐ
固められた所作よ
積層した正しさの型よ
お前の境界を、お前自身の型の中に、戻せ
ここに在る『正しい祈り』という言葉を
俺が、ばらける方向に、解す」
最後の一行を発した瞬間、本殿の四隅の圧が、一斉に解けた。
ように、見えた。
次の瞬間、解けたはずの圧が、解けた方向のまま、ひとつの矢印になって、俺の正面に集中した。
手前の層が、抵抗の方向を変えた。
ほどけかけた所作の型が、最後の一撃として、外から「正しさを乱した者」に対して、矢のように飛んでくる。
俺は半歩、後ろに引いた。
間に合わない。
矢の先端は、俺の胸の中心を狙っている。
縁側の七海が、短く息を吸った。
俺は右手の指先を、自分の胸の前で、軽く弾いた。
ベクトル操作。
矢の進行方向を、九十度、横にねじる。
矢は俺の左肩のすぐ脇を、空気の捻れた音だけ残して、本殿の柱に当たった。柱に当たった瞬間、矢は柱の中に吸い込まれるように消えた。木目に沿って、薄い焦げ跡のようなものが、一瞬だけ走って、すぐに消えた。
手前の層が、消えた、と、感じた。
ただし、奥の層は、まだ残っている。
奥の御扉の向こう側で、もうひとつの圧が、ゆっくり立ち上がってくる。
桐生さんが、縁側で、短く声を漏らした。
「父、です」
その声は、震えていた。
声に、なっていた。
空中で固まらずに、桐生さんの口から、出た。
たぶん、手前の層が解けたことで、桐生さん本人の声の方は、一度、空間の指図から外れた。
ただし、奥の層、つまり、桐生さんが取り込んだ父の所作の型は、まだ桐生さんの身体の奥に固まっている。
俺はもう一度、息を整え直した。
奥の層への詠唱は、桐生さん本人の身体の中の話だから、慎重に組まないといけない。
奥の層を消すと、桐生さんが父を覚えていたという事実そのものまで削ってしまう。それは、剪定じゃない。
奥の層は、消さずに、本人の中の「父の記憶」の位置に、戻す。
ここは、力で押すのではなく、運ぶ。
俺は奥の御扉の方に向き直った。
桐生さんの方には、半分視線を残したまま、声を落とす。
「桐生さん」
「はい」
「あなたの中の、父の祝詞は、消しません」
桐生さんが、目を見開いた。
「ただ、それを、いま、あなたの身体の動きの方を支配している位置から、外します。父の祝詞は、あなたの記憶の方に、残ります。あなたの身体は、あなた自身の祈りの方に、解放されます」
桐生さんが、震える唇で、短く、答えた。
「お願い、します」
俺はもう一度、口を開いた。
今度は、もう少し短く、奥の層に向けて。
「ここに在る力に告ぐ
方向を持つ全ての流れに告ぐ
継いだ者の身体に降りた、先代の型よ
お前の在り場所は、ここではない
継いだ者の記憶の中に、戻れ
ここに在る『父の祝詞』という言葉を
俺が、記憶の側に、運び直す」
奥の御扉の向こうの圧が、ゆっくり、奥に引いていった。
御扉が、ほんの一瞬、薄く震えた。
空気の運動が、本殿の中で、戻り始めた。
縁側の風が、また、桐生さんの肩を、揺らした。塀の外の庭木の枝が、参道の方まで、また音を立てて揺れた。鳥居の方から、玉砂利を踏む音が、たぶん、本殿の中まで、ちゃんと届いた。
桐生さんが、縁側で、両手で顔を覆った。
肩が、震えていた。
声は、まだ出していない。
ただ、息が、いまは、自分の長さで、吸って、吐いていた。




