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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている
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羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている④

 桐生さんを縁側の側に下がらせて、俺は本殿の中央に立った。


 御扉の前。三方が並ぶラインの、ちょうど一歩手前。普段なら宮司の足が止まる位置。


 その一歩手前に立った瞬間、空間が動いた。


 動いた、というより、空間そのものが「正しい型」を提示してきた、と言うのが近い。


 まず、足の運びを指定された。右、左、右、と、半畳の幅で動くべき方向が、足の裏に強い圧として落ちてくる。次に、手の合わせ方が、肘から先の関節の角度として降りてきた。次に、頭を下げるべき角度。


 俺は全部、無視した。


 無視した瞬間、本殿の四隅から、空気の運動が一斉に俺の正面に向かって押し寄せてきた。


 目に見えない圧の塊が、複数の方向から、俺一人に集中する。


「タクマ君、本殿の左後ろ、空気が捻れてる」


 縁側の七海が、低く言う。


 観察者の素の方の七海だ。声は擬装の砕けた口調から二段落ちている。


「うん、見えてる」


 俺は両手の指先を、軽く開いた。


 まず最初に、自分の足元の押し返しを処理する。空間が指定してくる「正しい歩幅」を、ベクトル操作で反転させる。右に押されたら左に、左に押されたら右に。自分の足の裏で、空間の指図を弾き返していく。


 次に、肘の角度を矯正してくる圧を、運動量の方向反転で逃がす。


 次に、頭を下げさせようとする上からの圧を、首の付け根のあたりで、上向きのベクトルに置き換える。


 ひとつひとつは小さな操作だ。けれど、ひとつでも見落とすと、その瞬間に身体のどこかが固まる。


 桐生さんが、七年かけて、これを毎朝受けていたわけだ。


 しかも本人は、それを「正しい祈り」として受け入れていた。


「タクマ君」


 七海が、もう一段、声を落とした。


「いま、奥の御扉から、新しい層が出てきた」


「ああ」


 俺も気付いていた。


 本殿の奥、御扉の隙間から、もうひとつの圧の層が、ゆっくり立ち上がっている。


 いままで俺が処理していたのは、桐生さんが七年間反復してきた「日々の所作」の層だった。けれど、もっと古い層が、奥にある。


 たぶん、先代の祝詞の、痕跡。


 いや、痕跡というより、桐生さん本人が「父の祝詞」として身体に染み込ませた、父の所作の型。それが、奥の御扉の側に積層している。


 言い換えれば、二層構造になっている。


 手前に、桐生さん本人の七年。


 奥に、桐生さんが取り込んだ父の身体の型。


 俺は息を吐いた。


「面倒くせえな」


 言葉の語尾が、いつのまにか、空間に押し返されている。


 声が、空中で固まる。


 なるほど、これか、と思う。「面倒くせえ」と俺が言った時の、けだるい音程と、ぶっきらぼうな抑揚は、たぶん、この空間にとって「正しくない」音だ。だから途中で固まる。桐生さんの祝詞も、同じことが起きている。彼にとって「正しい」と決めた型から、わずかに外れた音が、押し返されて固まる。


 俺はそのまま、もう一回、口の動きを試した。


「面倒くせえ」


 今度は、口の中で言葉が一拍止まったが、最後まで音になった。


 空間の指図を、自分の意志で、押し返した。


 縁側の七海が、軽く笑った。観察者の素の方ではなく、擬装の砕けた口調の方の声で。


「タクマ君、空間にお返事してる」


「言わせてもらわないと、こっちが固まる」


 桐生さんは、縁側の方で、目を見開いていた。


 たぶん、いま、自分の身体に七年染みついた型が、外から弾き返されている様子を、目で追っている。


 俺は本殿の中央に立ったまま、軽く息を整えた。


 二層を、両方処理する必要がある。


 手前の七年と、奥の父の型を、別々の方向から解さなければ、本人の身体は元の境界に戻らない。


 両方を同時にやれるか。


 俺はもう一度、空気の流れを読み直した。


 本殿の柱と柱の間、御扉の向こう、三方の脇、縁側の側、参道の入り口、鳥居の外側まで、空間に節が積層している。ひとつずつ、丁寧に。


 やる、と決める。


 詠唱の方が、たぶん要る。

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