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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている
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羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている③

 参道を半ばまで進んだところで、本殿の脇から男の人が出てきた。


 四十代前半。白い狩衣に薄い灰色の袴。襟元はきちんと合わせてあるが、顔色は良くない。眼鏡の奥の目が、薄く曇っている。


 その人は俺たちを認めると、参道の方に向かって深く一礼した。


「桐生と申します。ようこそ、お参りくださいました」


 声は出ている。


 ただ、出ている、というだけだ。挨拶の型として整っていて、抑揚も最低限はある。けれどその声が、人の方ではなく、参道の正面の方を向いている。本殿の方に向かって出されている声を、たまたま俺たちが横で聞いている、という距離感だ。


 俺は会釈を返した。


「緒方と申します。氏子の方からのご相談で、伺いました」


「……ああ」


 その時、桐生さんの目に、わずかな光が戻った。


「組合長から、お話は」


「はい」


 組合長というのは氏子総代のことだろう。組織の観測網が氏子の口コミから拾った経路を、現場側からは「氏子総代経由の相談」という形に整えてある。瞳の組織のやり方として、地元の人間関係の中で違和感を生まない形に経路を整える流儀は、たぶん何度かこの神社にも適用されている。


「中へ、どうぞ」


 桐生さんは本殿の脇の階段の方を指した。


 俺と七海が後を追って、本殿の縁側を上がる。


 縁側に足をつけた瞬間、参道で感じた抵抗の倍くらいの押し返しがあった。「お前の足の運びは、正しくない」と、今度は背骨のあたりまで届く強さで言ってくる。俺はそれを、肩の力で軽く受け流す。


 本殿の中は、薄暗い。


 奥の御扉の前に、白木の三方が並んでいる。三方の上には、塩、米、水。手前に座布団が二枚。


 桐生さんが、その座布団のうちの一枚に正座した。


 俺と七海も、縁側に近い側に腰を下ろす。本殿の中まで踏み込まないのは、外から来た身として最低限の礼儀だ。


「七年、になります」


 桐生さんは、座布団の上で姿勢を整えながら、低い声で言った。


「父が、急に逝きました。私は、その時、まだ宮司ではありませんでした。神職の資格は持っていましたが、別の宮にいて、別の階位で、ここを継ぐ予定は当面、なかったのです」


 声は、参道で聞いた時より、少しだけ人の方を向いていた。


 ただし、目は俺たちを見ていない。三方の方を見ている。


「父の代の祝詞は、父の身体に染みついた、父の祝詞でした。私はそれを、よく覚えていました。けれど、自分の祝詞は、まだ作れていませんでした。継いだ翌朝から、私は、父の祝詞を、できる限り正確に、再現する努力をしました」


「七年間、毎朝」


「はい」


 七海が、トートバッグを膝の上に置いて、ゆっくり頷いた。


 桐生さんはそれに気付かないようにして、続けた。


「最初の三年で、足の運び、手の合わせ方、頭を下げる角度、呼吸の長さ、声の出だしの音程まで、父のとおりにできるようになりました。氏子の方からも、若いのに先代によく似てきた、と言っていただけるようになりました」


「四年目から、何かが変わった」


「はい」


 桐生さんが、ゆっくり目を伏せる。


「足を、間違えそうになると、足が止まりました。手を、間違えそうになると、手が止まりました。最初は、緊張のせいだと思いました。けれど、止まり方が、緊張のそれとは違いました。外から、押さえつけられているような」


 俺はもう一度、参道で感じた踏み返しを思い出す。


 あれを、内側から、自分の身体に対して受けている。


 桐生さんが、震える指を、自分の喉の前に当てた。


「ここ、ひと月ほどは、声まで」


「声が出なくなった、わけではなく」


「祝詞を、上げようとすると、途中で、固まります」


 桐生さんが、深く息を吸う。


 その吸い方の、入りと、止め方と、吐き出し方が、いつのまにか型に従っている。本人は呼吸をしているつもりで、空間が呼吸の長さを指定している。


 俺は隣の七海と、視線を一秒だけ交わした。


 七海が、わずかに頷く。


 やる、と決めた。


「桐生さん」


 俺は声を低くした。


「これから、私が、こちらの社に、ある操作をします。お祈りの型を、緩めます。あなたの身体が、いま縛られているものを、外側から少しずつ解きます。痛みは、たぶん、ありません。けれど、最初の数分は、たぶん、息苦しいと感じるかもしれません」


「お任せ、します」


 桐生さんは、目を伏せたまま、短く答えた。


 その短さの中に、七年分の諦めが、薄く乗っていた。

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