羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている⑦
坂を下りる途中で、七海と短く言葉を交わした。
組織への報告は七海がやる。桐生さんの様子は、しばらく観測網で見守る。氏子総代経由で、もし朝の祝詞に変化があれば、また連絡が入る。それくらいの段取りだった。
坂の途中で、七海が、ふと、足を止めた。
「タクマ君、ボクね、人が、自分の身体を、自分のものとして使えるようになる瞬間って、わりと好きなんだ」
観察者の素の方の七海が、薄く、出ていた。
「ふうん」
俺は短く返した。
七海はそれ以上、何も言わなかった。
駅前のロータリーの手前で、七海は別の方向に折れた。トートバッグを抱え直して、振り返らずに歩いていった。擬装の女子大生が、午後の用事に向かう自然な歩き方だった。
俺は喫茶店の方に戻った。
ドアベルが鳴る。
マスターが厨房の奥から顔を上げて、低く言った。
「お帰り」
「ただいま」
窓際の常連の老人は、まだ文庫本を開いていた。出てきた時とほぼ同じ姿勢で、同じページを読んでいるのか、進んでいるのかは、分からない。あの人がここに座っている時間の長さを、俺はたぶん、これからも測ることはない。
俺はカウンターの内側ではなく、客側のスツールに腰を下ろした。
マスターが、振り返らずに、コーヒーを淹れ始める。
豆を挽く音、湯気の立ち上がる音、ドリッパーに湯が落ちる音。
その全部が、ちゃんと、別々の音として、耳に届く。空中で固まる音はひとつもない。
しばらくして、マスターがカップをカウンターに置いた。
俺は両手でカップを包んで、湯気を、少しだけ顔に近づけた。
「マスター、人が、自分の言葉を、自分の長さで、出せるようになるまで、どれくらいかかると思います?」
マスターは布巾でカップの縁を拭いていた手を、止めなかった。
「人によるんでしょうね」
「ですよね」
「ただ、出せるようになる人は、いつかは、出せるようになります」
「ですよね」
マスターの手の動きは、布巾を、カップの縁に沿って、同じ速さで動かしていた。たぶん、長年、同じ速さで動かしている。けれどそれは、空間に固められた速さではなく、マスターの手が選んできた速さだ。
俺はカップを傾けて、一口、飲んだ。
苦みが、舌の上で、ちゃんと広がる。広がってから、薄くなる。広がる速さも、薄くなる速さも、たぶん、俺の口の中で、俺自身の速さで起きている。
今日の桐生さんの背中の、まだ伸びきっていない、けれど伸びる方向に解けていく姿勢を、思い出す。
たぶん、明日の朝、本殿で、声は、空中で固まらないだろう。
完全に出るかどうかは、知らない。
ただ、固まらなくはなった。
あとは、桐生さん自身の長さで、桐生さん自身の祝詞を、上げる。それだけだ。
俺の名前は、明日の朝の本殿には、要らない。
桐生 隆司、という名前だけが、本殿に立つ。
それで、いい。
カップを置く。
湯気は、まだ、立っていた。
冷めるまでには、もう少しある。
俺は両手をカウンターに乗せて、湯気の上がり方を、しばらく、目で追った。
マスターはカウンターの向こうで、別のカップを布巾で拭いていた。
その動作の、布巾を動かす速さも、たぶん、マスター自身の長さで動いている。長年、そうしてきた人の長さだ。
北の空の方を、振り返らなくても、感じる。
あそこに、丸い光がある。
動かず、消えず、形も変わらない。
ただ、見ている。
俺はもう一度、カップを取って、二口目を、ゆっくり飲んだ。
コーヒーは、冷めかけていた。
冷めるまでには、まだ、間があった。
その間に、帰ってきた。
その間に、人ひとりの七年間が、その人自身の長さの中に、戻された。完全に戻ったかどうかは、明日の朝、本殿の中央に立った時に、桐生さん自身が確かめる。俺はそれを確かめに行かない。確かめに行く役は、たぶん七海でも氷見でもなく、氏子の人たちが、毎朝の祝詞の声で、勝手に確かめてくれる。
俺の仕事は、コーヒーが冷めるまでに、帰ってくる。
それだけだ。
二口目の苦みが、口の中で、ゆっくり広がって、ゆっくり薄くなった。
その速さも、俺自身の口の中の速さだった。
それで、今日は、十分だった。
ここまで読まれた方は一人もいらっしゃらないと思います。
なろうでの掲載は終了いたします。
読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。




