羽鳥神社の本殿には固まった祈りが立っている①
午後の講義をひとつ抜け出して、いつもの喫茶店に戻った。
戻ったというより、最初からここに居たかった、と言うのが正しい。哲学科の教室は昼を過ぎると空気が薄い。誰かが何かを真剣に説いていて、誰かが眠そうにそれを聞いている。教壇の声と、ペンが紙を擦る音と、椅子が軋む音だけが、規則正しく続いていく。あれを真面目に三限まで座っていられる学生は、本物の学者になる素質がある。俺にはない。
ドアベルが鳴って、マスターが顔を上げる。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
カウンターの内側に入って、エプロンを結ぶ。マスターは厨房の奥で、コーヒー豆を計量している。常連の老人が窓際の席で文庫本を開いていて、その向こうに、もう一人いる客がいるのが、エプロンの紐を結びながら視界の隅に入った。
その客は、文庫本でも新聞でもなく、店の正面入り口の方を見ていた。
俺の方を、ではない。
入ってくる誰かを待っている目だ。
「……七海」
短く呼ぶと、その客がこちらを振り返って、笑った。
「やあ、タクマ君」
今日の擬装は、地味めの私服に大判のトートバッグを抱えた、女子大生風。髪はセミロングで色は明るめ、化粧は薄い。テーブルの上にはアイスティーが一つ。グラスの表面に水滴がついていて、まだほとんど口を付けていない。
マスターが、厨房の奥から低い声で言う。
「お知り合いの方が、お待ちでしたよ」
「すみません、お待たせして」
マスターは曖昧に頷いて、計量を続けた。事情を知っているのか、いないのか、判別をさせない流儀。客として丁寧に扱うが、特別な対応はしない。長年そうしてきた人の手つきだ。
俺はカウンターから出て、七海の前の椅子を引いた。
「で?」
七海の口角が、わずかに上がる。
「タクマ君、その『で?』、ちょっと早すぎない? ボク、まだ世間話とかしてないんだけど」
「お前が世間話をしに俺の店に来たことが、これまでにあったか?」
「うん、ない」
あっさり認める。アイスティーのストローを口に運んで、形だけ一口飲む。
「タクマ君、琴生の旧市街、奥の方に羽鳥神社っていうの、あるの知ってる?」
古い住宅街の奥。坂をのぼって、両側を低い塀に挟まれた細い道を進むと、突き当たりに小さな鳥居がある。本殿は古い木造の社で、社務所と宮司の家が裏手にくっついている。氏子の数はせいぜい百数十人。祭礼の日以外は、ほぼ無人。そんな町の小さな神社だ。
地名と社名で、それくらいは頭の中に浮かぶ。学部で何度か通り抜けたこともある。
「あるな」
「あそこの宮司さんが、最近、祝詞が、声になっていないんだ」
俺はいま聞いた言葉の、一秒の遅れに気付く。
声が出ない、ではない。
声がうまく出ない、でもない。
声に、なっていない。
「……どういうこと?」
「うん、ボクも氏子の人から聞いた段階では、よく分からなかった。喉の病気でも、加齢でもなさそうなんだ。ご本人は、声を出してるつもりらしいんだよ。手も合わせてるし、頭も下げてるし、口も動いてる。でも、その全部が、なんていうのかな、空中で固まって、声にならない」
「祝詞が、空中で固まる」
「うん」
七海はストローを離して、まっすぐ俺を見る。
その目だけが、擬装の温度から一段降りていた。観察者の素が、薄く出ている目だ。
「タクマ君、これ、たぶん、祈りの方の話なんだよ」
俺は息を吐いた。
マスターが厨房の奥で、コーヒー豆の計量を終えた音がする。豆挽きのモーターが回り始める。
「面倒くせえな」
言ってから、エプロンの紐をほどく。
「マスター、ちょっと出てきます」
「はい、行ってらっしゃい」
マスターは振り返らずに、低く答えた。
俺と七海が並んで店を出る。ドアベルが背中で鳴る。坂の上に、北の空の天眼が、丸く光って動かない。




