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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない
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沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない⑦

 組織のドライバーが、別の車を回して、団地の入り口に二台目を着けた。詩織を乗せた一台は、もう先に出ている。二台目は、氷見と七海を組織の事務所まで送るためのものだった。


「緒方さん、お送りいたしましょうか」


 氷見が車のドアを開けながら短く訊ねた。


「いや、いい。バスで琴生まで戻る」


「了解しました」


 七海が車に乗り込む前に、こちらを振り返った。


「タクマ君、お疲れ。今日、組み立て、わりと面倒だったよね」


「面倒くせえな、というのは、いつも通り思った」


「うん。それはタクマ君のいつも通りだ」


 七海はそう言って、後部座席に身を入れた。氷見が後を追って、助手席に座る前に、もう一度、こちらに視線を送った。


「緒方さん」


「ああ」


「お疲れ様、でした」


 氷見の業務的な丁寧語は、相変わらず崩れない。けれど、語尾の最後の一拍が、いつもより、ほんのわずか、長かった。「でした」の「た」の音が、立ち消える前に、半拍だけ、空中に残っていた。


 俺は短く頷いた。氷見は助手席に座って、ドアを閉めた。


 車が動き出す前に、後部座席の窓が、半分だけ下がった。


 七海が窓から顔を覗かせて、軽く片手を上げた。


「タクマ君、また、近いうちに」


「ああ」


 窓は、また、半分まで上がった。


 車が坂を下り始めた。


 俺は団地の入り口の駐車スペースに、一人で立ったまま、車が見えなくなるまで、見ていた。坂の下のカーブを曲がる時、車のテールランプが、薄く、左右に揺れた。それが見えなくなってから、俺は息を一つ、吐いた。




 * * *




 団地の坂を、下りた。


 坂の上から海風が吹き上げてきて、肩に当たる。海風の匂いが、市街地に向かって流れていく。坂を半分下りたあたりで、団地の三号棟がもう、視界の後ろに隠れた。四〇五号室の窓が、もう、見えない。


 バス停まで歩いた。坂を下りきって、海岸沿いの道路に出たところに、市営バスのバス停が立っていた。屋根のないバス停で、ベンチもなかった。時刻表を見ると、次のバスまで、十二分。


 俺はバス停の柱に背中を預けて、海の方を見た。


 凪浦市の海は、十一月の入り口の薄い灰色をしていた。沖の方に、貨物船が一隻、ゆっくり進んでいた。波の音が、薄く、規則的に、寄せて返していた。波の音のリズムは、どこのリズムにも同期していなかった。波は波の拍で寄せて、波の拍で返していた。


 ばらばらだった。


 澤村家のあの空間の動線とは、対極にある音の集合だった。


 俺はもう一度、息を吐いた。


 多恵の中の三十年は、彼女の中に残った。彼女が三十年掛けて積み上げた「自分を消す型」は、彼女自身を保つための骨格になっていた。それを返されることを、彼女は拒絶した。返されない、という選択は、彼女の自我を守るための選択だった。


 ふみえさんの十年と、似ていた。けれど、違っていた。ふみえさんは、九分間の中で主人を偲ぶ手順を、自分のものとして残した。多恵は、三十年の「自分を消す型」を、自分のものとして残した。前者は、死んだ夫への偲びだった。後者は、生きている家族との関係の中で、自分を消す型だった。どちらも、剪定の対象になりかけたものを、本人が「自分のもの」として残した。


 淀みの種は、誰かの悪意から始まるわけではない。誠実さから始まる。誠実さが積み重なって、本人を逆に動かす側に回る。それを剪定する。けれど、本人が「自分のものだ」と言うものは、残す。剪定する側の都合で、本人の輪郭まで削り落とすわけにはいかない。


 多恵が、これから、自分の三十年をどう持ち直すか、それは、多恵の問題だった。詩織が不在の家で、しずを一人で見ることになる。しずは、八十七歳の自分に戻った。多恵が「自分を消す型」を続けたいと選ぶなら、続けるだろう。続けないと選ぶなら、続けないだろう。どちらでも、それは、多恵が選ぶことだった。


 バスが来た。


 市営バスの空いた車内に乗り込んで、最後尾の席に座った。エンジンが小さく震えてバスが動き出した。窓の外を、海岸沿いの景色が、ゆっくり後ろに流れていった。




 * * *




 琴生駅前でバスを降りて、商店街のアーケードを抜けて、いつもの細い間口の前まで来た。


 扉を押すと、低い鈴の音が一回、鳴った。


「お帰り」


 マスターはカウンターの内側にいた。コーヒー豆の計量をしていた手を、止めなかった。客は、奥の四人席に二人連れ、窓際の席に文庫本を読んでいる老人。同じ老人なのか、別の老人なのか、判別はつかない。


「ただいま戻りました」


 俺はカウンターの一番奥の席に座った。


「コーヒーを」


「はい」


 マスターは、計量を中断して、湯を沸かす作業に入った。湯を沸かし、カップを温め、ドリッパーをセットし、豆を計り直し、湯を細く落とす。一連の所作は、いつも通りの速度だった。


 俺はカウンターに肘をついた。


 今日は、二人並ぶ回だった。氷見と七海が並んで喫茶店の入り口に立っているのを見るのは、珍しいはずだった。三人で団地に向かい、三人で四〇五号室の動線を観察し、それぞれの判定を組み合わせて剪定を組み立てた。氷見の判定の切り分けと、七海の境界の押し返しと、俺の詠唱と有機物操作。三つの動きが噛み合って、剪定として機能した。


 二人で帰っていった。一人で帰ってきた。


 マスターがコーヒーを置いた。湯気が、立っていた。


 俺はカップを引き寄せて、最初の一口を飲んだ。


 苦さが舌の奥に薄く広がった。喉を通って、胃の上の方に、温かさがゆっくり降りていった。一口目で、肩の奥に残っていた重さが、半分くらいほどけた。詠唱と有機物操作と、四つの動きを同時に組み立てた余波の痺れが、コーヒーの温かさに撫でられて、薄まっていく。


 二口目を飲むと、最初より味の輪郭がはっきりしていた。


「マスター」


「はい」


「今日は、二人並ぶ回でした」


「はい」


 マスターはそれだけ返した。コーヒー豆の計量に、ゆっくり、戻った。秤の針が動く音が、低く聞こえた。


 窓の外、商店街のアーケードの隙間から、北の空が細く見えていた。秋の薄い夕方の中で、月よりやや小さい白い円が、いつもどおりそこにあった。


 動かない。消えない。形も変わらない。


 あの円の下で、今日も、誰かが家を出て、誰かが家に残った。多恵は家に残り、しずは家に残り、詩織は家を出た。それぞれの選択が、それぞれの場所に留まった。氷見と七海は組織の事務所に戻り、俺は喫茶店に戻った。それぞれが、それぞれのリズムで、それぞれの場所に帰った。


 ばらばらだった。


 ばらばらでいい。


 二人並ぶ回も、悪くなかった。けれど、一人で帰ってくるのも、悪くなかった。コーヒーが冷めるまでに、いつもの席に戻ってこられた。それで十分だった。


 明日もたぶん、こういう一日が続く。


 大学の講義に出席だけ取って、喫茶店に来て、マスターにコーヒーを淹れてもらって、北の空を見る。たまに氷見が一人で現れて、たまに七海が一人で現れて、たまに、二人で並んで現れる。終わったらまた、ここに帰ってくる。


 帰ってきたあとに、マスターが「お帰り」と言ってくれる。


 その「お帰り」が、たぶん、俺の今日を、終わらせている。


 俺はカップを傾けて、最後の一口を飲み干した。


「マスター、お代わりを」


「はい」


 マスターはまた、カップを温めるところから始めた。湯気が、二度目の湯気が、立ち始めた。

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