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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない
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沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない⑥

 しずが、ゆっくりと顔を上げた。


 彼女の目に、彼女自身の年齢の薄さが、戻っていた。八十七歳の老人の目。家の調整役を担う中年女性の目ではなく、息子が長期入院中で孫娘が家のことをやってくれている、八十七歳のお婆さんの目だった。


「あら、あの、皆様」


「奥様、お加減は」


 氷見が業務的な丁寧語で短く訊ねた。


「あら、なんだか、お茶の湯気が、いつもより、あたたかいような気がしますわ」


 しずはそう言って、自分の湯飲みに目を落とした。湯飲みの表面には、湯気がゆっくりと立っていた。湯気の立ち方そのものは、たぶん、いつもと変わらない。けれど、彼女の中で、湯気を「あたたかい」と認識する余裕が、戻っていた。


 多恵は、エプロンの中で、自分の手を見ていた。両手を、エプロンの上に並べて、指を一本ずつ、ゆっくりと曲げ伸ばしている。指の動きに、ばらつきがあった。一定のテンポではない、彼女自身のばらつきだった。


 しばらく、誰も口を利かなかった。


 居間の柱時計が、規則正しく、薄く響いていた。座卓の上の四つの湯飲みのうち、客用の一つだけが、湯気を立てたまま、誰にも触れられていなかった。


 俺は襖の手前で、片膝をついた姿勢のまま、肩の重さをゆっくり下ろした。


「奥様、お母様」


 氷見がもう一度、二人に向き合った。


「私どもは、これで、お暇させていただきます。お孫さんは、奥のお部屋で、少し、お話をしてから、外に、お連れいたします」


「あら、詩織を」


「はい。お孫さんが、しばらく、別の場所で過ごされる方が、お孫さんご本人のためになる、と判断いたしました。組織の協力施設で、休んでいただく予定です」


「あら、あら」


 しずは何度か瞬きをして、それから、ゆっくりと頷いた。


「詩織が、それで、よろしければ」


「はい。本人の意思を、確認しております」


 多恵がエプロンを膝の上で握り直して、何か言いかけた。けれど、口から出る前に、自分で言葉を飲み込んだ。「お母さん、わたくしは」と言いかけて、そのあとが続かなかった。多恵の中の三十年の役割は、彼女の中に残った。彼女自身が、その役割を続けるかどうか、彼女自身で選び直す段階に、入った。


 俺は奥の部屋の方を見た。


 七海が詩織と並んで、廊下の方に出てきていた。詩織は、自分の足で、廊下を歩いていた。歩幅は等間隔ではなく、半歩ずつのばらつきがあった。彼女自身の歩き方だった。


 七海が廊下の途中で、詩織の方を見た。


「お孫さん、最後に、お婆ちゃんとお母さんに、何か、伝える?」


「……」


 詩織は、しずと多恵の顔を、ゆっくり、見た。


 彼女の喉は、まだ、声を出すのに少し時間がかかっていた。けれど、声を出さないという選択も、彼女自身の選択だった。


「私、行ってきます」


 短く、そう言った。


 しずが八十七歳の声で、ゆっくり返した。


「あら、いってらっしゃい」


 多恵は何も言わなかった。エプロンを握ったまま、視線を畳の縁の方に落として、それから、小さく、頷いた。頷いただけだった。


 頷いただけで、十分だった。


 俺たちは廊下を進んで、玄関で靴を履いた。三和土の女物の靴の並びは、もう、寸分の違いもなく等しい間隔ではなかった。詩織が自分の靴を履く時に、並びを少しだけ崩した。崩した跡が、三和土に残った。




 * * *




 外階段を降りる時、詩織の足取りに、まだ、わずかなぎこちなさがあった。


 半年振りに自分の足で歩いている。脚の筋力が落ちているわけではないが、脚の動かし方を、家の動線に押されない形で、思い出している途中だった。氷見が彼女の左側に、七海が右側に立って、二人で支える形になった。俺は一段下を先に降りて、彼女の足元の段差を確認しながら歩いた。


 団地の入り口に、組織のドライバーが、別の車を回して待っていた。氷見が事前に手配したらしかった。協力施設までは、市内をもう一度跨いで、四十分ほどの距離だ。


「澤村さん」


 車に乗り込む前に、氷見が短く声を掛けた。


「協力施設には、一週間、ご滞在いただけます。その後、ご本人の希望に応じて、就労支援の窓口、住居の支援、その他、必要な制度につなぎます。お母様とお婆様には、定期的な見回りを、観測網側で続けます。よろしいでしょうか」


「はい。お願いします」


 詩織の声は、もう、喉に詰まっていなかった。声帯が、自分のリズムで振動していた。


 車のドアが閉まる前に、詩織はもう一度、団地の三号棟の四階を見上げた。


 四〇五号室の窓。そこには、しずの姿も、多恵の姿も、見えなかった。窓ガラスに、薄く、午後の光が反射しているだけだった。


 詩織はそれを数秒見てから、車のシートに体を預けた。


 車のドアが閉まり、車が動き出した。坂を下って、市街地の方へ。




 俺と氷見と七海は、団地の入り口の駐車スペースに、三人で残った。


 車が見えなくなってから、しばらく、誰も口を利かなかった。坂の上の風が、団地の建物の谷間を抜けて、内陸側へ流れていく。さっき四階のあたりで止まっていた風の流れは、もう、止まっていなかった。


「お疲れ様でした」


 氷見が業務的な丁寧語で、最初に口を開いた。


「お疲れ」と、俺。


「タクマ君、お疲れ」と、七海。


 三人の言葉のリズムは、揃わなかった。


「氷見、判定の切り分け、助かった」


「業務上、必要な判定を入れただけです」


「うん、助かった」


 俺はもう一度、それだけ言った。


 氷見の業務口調は、相変わらず崩れない。けれど、業務口調の語尾が、いつもより、半拍だけ、長かった。揺らぎの出方の一つだった。


「ボクの方の境界も、ちゃんと押し返せたよ」


 七海が肩を軽く揺すった。


「うん、それは見えてた」


「氷見さんの判定が早かったから、ボクの方も、組み立てやすかった」


「七海さんの担当領域への踏み込みが、適切でした」


 氷見の言葉に、七海が小さく笑った。


「氷見さん、それ、業務評価」


「業務評価です」


「うん、知ってる」


 二人の言葉のリズムが、ようやく、半拍だけ揃った。揃ったあと、また、ばらけた。それで良かった。


 俺は団地の入り口の方を、もう一度、見上げた。


 四〇五号室の窓。多恵の中の三十年は、彼女の中に残った。しずの中の戦後の貧困期は、しずの中に戻った。詩織の身体への流入は止まった。今日できた剪定は、それだけだった。


 明日からの澤村家のことは、澤村家の問題だ。多恵が、詩織の不在の中で、自分の三十年の役割をどう持ち直すか。しずが、八十七歳の自分として、家の中でどう過ごすか。それは、彼女たち自身の選択になる。


 俺たちが、根を管理するわけではない。


 今日できる剪定を、今日した。それだけだ。


 帰るか、と心の中で言った。

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