沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない⑤
居間に戻ると、しずと多恵が、座卓の上に湯飲みを四つ並べていた。
四つ。家の住人の数より一つ多い。男物の客用の湯飲みが、座卓の客側の端に置かれていた。多恵が並べたのか、しずが並べたのか、判別はつかなかった。並べた本人も、自分が並べたことを意識していないかもしれない、という置き方だった。
俺は襖の手前に立ったまま、湯飲みを取らなかった。座らなかった。座ると、空間の動線に取り込まれる。座る位置を、四つ目の湯飲みが指定している。
「氷見」
「準備、整っています」
氷見が台所の方から戻ってきた。湯飲みに茶を注ぎ終わって、しずの隣に立っている。彼女もまた、座らなかった。
七海は奥の部屋の襖を半分閉めて、廊下の中央に立っていた。詩織はベッドの縁に座ったまま、爪先を床から数ミリ浮かせている。剪定の前に、彼女の身体への流入を一度遮断する必要があった。
「お婆様、お母様、少々、よろしいでしょうか」
氷見が業務的な丁寧語で、しずと多恵に向き合った。
「あら、はい」「はい」
二人の声が、ほぼ同時に重なった。重なり方が、不自然なほど揃っていた。
「お住まいの空気の流れに、少し、調整を入れさせていただきます。お二人はそのまま、お座りのままで」
「あら、空気の流れ、ですか」
「はい。ご心配はいりません」
しずは小さく頷いた。多恵もまったく同じ角度で頷いた。二人が頷くタイミングが、半拍たりとも、ずれていなかった。
俺は息を整えた。
空間の動線の節は、居間と仏間の境目──押入れの襖の手前にある。多恵の寝室の入り口だった。多恵が三十年前に嫁いできた時に、自分の寝室を譲って押入れに身を移した、その選択の起点。家の中で多恵が「自分を消す」を始めた最初の場所。そこに、しずの代の戦後の貧困期の「自分を消す」が重なり、さらにその上に、詩織の代の「家の調整役」が積層している。三世代分の「自分を消す型」が、押入れの襖の手前で、節を作っている。
通常の発動では届かない。空間の節が三世代分積層しているため、それぞれの代に対して個別に呼びかけて、それぞれの代の中に戻す必要があった。詠唱が要る。
唇を、わずかに動かした。
「ここに在る力に告ぐ」
声は低く、しずと多恵の耳には届かない音量で発された。
「方向を持つ全ての流れに告ぐ」
空間の中の、世代を跨いで継がれてきた動線への呼びかけ。
「祖の代に積もった『自分を消す』よ
次の代に積もった『自分を消す』よ
その次の代に積もった『自分を消す』よ
お前たちの境界を、お前たち自身の代の中に、戻せ
ここに在る『継がれる役割』という言葉を
俺が、それぞれの代の身体の中に、収め直す」
最後の一行を発音した瞬間、押入れの襖の手前で、何かが、ふっと、抜けた。
三世代分積層していた節が、それぞれの代に向かって解けていく感触があった。しずの代の「自分を消す」がしずの中に戻り、多恵の代のそれが多恵の中に戻り、詩織の代の「家の調整役」が、詩織の身体への流入経路を断たれた。
が。
戻り始めた瞬間、多恵が、ぴたりと止まった。
座卓の前で、湯飲みを両手で包んでいた多恵の体が、急に固まった。両手の指が、湯飲みの陶器の表面を、強く握りしめた。陶器の表面に、爪が当たる薄い音が、鳴った。
「あら、わたくし、これ」
多恵の声に、初めて、揺らぎが乗った。
「あの、これ、お返しいただきたく、ない、のですけれど」
俺は短く、息を吐いた。
多恵は自分の代の「自分を消す」を返されることを、拒絶した。彼女自身が三十年かけて積み上げた「自分を消す型」は、彼女自身の中で、彼女自身を保つための骨格になっていた。それを返されると、彼女のアイデンティティが揺らぐ。
* * *
氷見が、即座に、業務的な判定を入れた。
「緒方さん。多恵さんの中の『自分を消す型』は、本人の意思で残す形に切り分けてください。詩織さんの身体への流入経路だけを、断ってください」
「分かった」
氷見の判定は、速かった。多恵の中の役割を全部返すと、彼女の自我が空洞になる。三十年の家事の積み重ねが、彼女自身の輪郭を作っていた。それを尊重しつつ、孫の代への流入だけを止める。境界の引き方の角度を、もう一段細かく調整する必要があった。
ただ、多恵の中の役割をそのまま残すと、彼女自身がまた詩織に向かって動線を伸ばすリスクがある。それを止めるには、もう一つの判定が要った。
七海が、奥の部屋の襖の方から、声を入れた。
「氷見さん、ボクの方の判定、入れていい?」
「七海さんの担当領域です。どうぞ」
「タクマ君、お孫さんの方は、ボクが一回、彼女の意思を確認したから、ボクが見届けてる。お孫さんの方の境界、お母さんから動線が伸びてきても、もう、お孫さんに届かないように、ボクが内側から押し返す」
七海の声音が、砕けた口語の中に、観察者の素を一段濃く混ぜていた。
「分かった」
俺は二度目の詠唱を打つ余裕がなかった。詠唱なしで、有機物操作の方を組み合わせる。
指先を、座卓の縁に軽く触れさせた。座卓の木目の流れの方向に、指先からのベクトルを乗せた。木目の中の組成の流れと同じ方向に、しかしそれを多恵の手から伸びる動線の根本へと届かせた。
多恵の両手が、湯飲みの上で、一度ぴくりと動いた。
動いて、止まった。
多恵の中の「自分を消す型」は、彼女自身の中に残った。けれど、その型が詩織に向かって動線を伸ばす経路だけが、有機物操作によって、座卓の木目の方向に逸らされた。多恵の役割は多恵の中で完結し、孫への流入は止まった。
奥の部屋の方で、七海が短く、息を吐いた。
「届かなかった、ボクの方で確認した」
詩織の方から、薄く、声が聞こえた。
「あの、私、足、つきました」
俺は奥の部屋の方を見た。襖の隙間から、詩織の足が、床に下りているのが見えた。爪先が、床に触れていた。床に触れて、床の上で、自分の体重を支えていた。
十年か十五年か分からないが、彼女が自分の足で床に立ったのは、半年振りか、それ以上振りだった。
しずは座卓の前で、ゆっくりと茶を飲んでいた。
しずの背筋から、若返った中年女性の張りが、少しだけ抜けた。背中がやや丸くなり、声に八十七歳の老人の薄さが戻った。彼女は最初に客を迎えた時より、少しだけ、年齢相応の彼女に戻っていた。
多恵の方はエプロンの中で、ゆっくりと両手を膝に下ろした。両手の指のリズムは、もう一定のテンポではなかった。指の動きに、止まる瞬間と動く瞬間のばらつきが戻っていた。彼女の中の「自分を消す型」は、彼女の中に残った。けれど、その型は、もう、詩織に向かっていなかった。
全部、終わった。
俺は座卓の手前で、軽く片膝をついた。指先が薄く痺れていた。詠唱と有機物操作と、氷見の判定への対応と、七海の境界の押し返しと、四つの動きを同時に組み立てた余波だった。
肩の奥が、いつもより重い。けれど、剪定としては、機能した。




