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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない
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沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない④

 奥の廊下から、七海の声が薄く聞こえてきた。


「お孫さん、ボク、ちょっと、隣に座ってもいい?」


 返事は聞こえなかった。けれど、七海の声が一拍置いて、また響いた。


「うん、ありがと。じゃあ、座らせてもらうね」


 声音が、いつもの砕けた口語の中に、もっと素朴な響きを混ぜていた。詩織に対しての温度が、俺への砕け方とも、氷見への軽い茶化しとも違う、第三の温度だった。剪定の対象になる相手に取る、保護者でも友人でもない、観察者としての近さ。それが、七海の素の漏れの一つの方向だった。


 居間で、しずがゆっくりと立ち上がった。


「お茶を、お入れしましょうか」


「お構いなく、すぐにお暇しますので」


 氷見が業務的な丁寧語で短く返した。しずは少し首を傾げて、それでも台所の方へ歩き始めた。多恵が、その動きに反応して、廊下の方へ動こうとした。


 動こうとして、止まった。


 多恵の身体が、廊下の手前で、ぴたりと止まった。エプロンを握っていた両手の指の動きが、急に速くなる。一定のテンポが乱れ、開いて閉じてのリズムが、一回だけ破れた。彼女自身、自分の体の止まり方に、戸惑っている顔をした。


「あ、ら」


「多恵さん」


 氷見が業務的な声でその名を呼んだ。


「いまは、座っていらしてください」


「あ、はい。あの、お茶を」


「私が、台所でお手伝いします。多恵さんは、お母様と、こちらに」


 多恵は何度か瞬きをして、ゆっくりと自分の座布団に戻った。戻った瞬間、エプロンを握る指のリズムが、また元の一定のテンポに戻った。


 俺は短く、息を吐いた。


 多恵が動こうとした方向は、しずがすでに動き始めた方向と同じだった。台所。多恵の役割は、しずが動き始めた瞬間に、しずを追って同じ動線を取ることだった。多恵の身体が、それを自動的に実行しようとしていた。氷見が「座っていてください」と一言挟んだことで、多恵の自動運動が、一瞬だけ止まった。


 淀みの種は、家の三人の動線を、あらかじめ決められた組み合わせの中に固定していた。しずが動けば多恵が追い、多恵が動けば詩織が追う。誰かが組み合わせから外れようとすると、外れた者の身体に物理的な抵抗が出る。多恵の場合は「動こうとして止まる」、詩織の場合は「足が止まる、声が出ない、窓に近づけない」。


 しずは止まらない。なぜなら、しずは家の中で、最も古い世代の役割を担っているから。動線の起点。起点は止まらない。


 氷見が立ち上がって台所の方へ歩いた。しずが既にコンロの前に立って、薬缶を取り出していた。氷見はしずの隣に並んで、お湯を沸かす作業を手伝う体を装いながら、しずの背中の動線を観察していた。


 俺は廊下の方へ目を向けた。


 奥の部屋の襖が、半分だけ開いていた。隙間から、七海の背中が見えた。畳の上に正座をして、小柄な詩織の隣に座っている。詩織はベッドの縁に腰掛けて、両足を床に下ろしていた。床に下ろしているが、足の裏は床についていない。爪先が床に触れる手前で、止まっていた。


 まるで、床の上に乗ることを許されていないように。


「お孫さん、足、つけたい?」


 七海が低く訊ねた。


 詩織は答えなかった。けれど、足の爪先が、床に向かってもう少しだけ伸びた。伸びて、止まった。床に触れる寸前で、見えない壁に阻まれているように、爪先が止まる。


 七海の声が、もう一段、低くなった。


「無理に、つけなくていいよ。今は、つけられないだけだから」




 * * *




 俺は廊下を進んで、奥の部屋の襖の手前で、片膝をついた。


「失礼します」


 短く声を掛けてから、襖の隙間から声を入れた。


 七海が振り返った。詩織は振り返らなかった。視線は床の上の自分の爪先に固定されていて、その視線を動かす権利が今、彼女に残っていない様子だった。


「タクマ君、入る?」


「お邪魔する」


 襖を半分だけ動かして、部屋に入った。畳の上に正座をして、詩織の正面ではなく、斜め前の位置に座った。正面に座ると、見えない壁が彼女の周囲に張る。それを避けた。


「澤村、詩織さん」


「……はい」


 詩織の声は喉の奥で詰まっていた。声帯がうまく振動しない、薄い掠れだった。前にどこかで聞いた声に近い、と思った。あの自習室の柏木さん。彼女も最初はこういう声をしていた。


「俺は緒方と申します。地域包括センターの、嘱託です」


「……はい」


「長くは、お話ししません。一つだけ、伺っていいですか」


「……はい」


「あなたは、ここの家から、出たいですか」


 彼女の視線が、初めて、爪先から動いた。動いた先は、俺の顔ではなく、隣に座っている七海の顔だった。詩織は七海の顔を、確認するように、見た。確認して、ようやく、視線を俺の方に向けた。


 彼女の目に、罪悪感が浮かんでいた。


 あのふみえさんに似ていた。出たいと思っていることを、口にしてはいけない、と内側で言い聞かされている目。けれど、ふみえさんとは違う色も乗っていた。嫌悪。役割そのものに対する、生理的な拒絶。


「出たい、と思って、います」


「思って、いいと思います」


「私が、出たら、お母さんが」


「お母さんが、どうなる、と思いますか」


「お母さんは、お婆ちゃんを、一人で、見ることに、なります。私は、お婆ちゃんと、お母さんの、間で、家を、回す、役、を、引き受けて、います」


 言葉が、息継ぎのたびに途切れた。彼女の声は、家の中の動線に、内側から押されて出てきている声だった。


「その役は、誰が、あなたに、頼みましたか」


「……」


「お婆ちゃんが、頼みましたか」


「いいえ」


「お母さんが、頼みましたか」


「いいえ」


「では、誰が、頼みましたか」


 詩織はしばらく、答えられなかった。


 答えられなかった、というよりは、答えがすでに自分の中にあるのに、それを言葉にする許可が、自分自身から下りていない、という顔だった。


 七海が静かに、横から声を入れた。


「お孫さん、答えなくていいよ。答えがあなたの中にあれば、それでいい」


 七海の声音が、一段下がった。砕けた口語と、古風な響きと、もっと素朴な響き。三つの温度が、混じった声だった。詩織はその声を、聞いた。


 聞いて、爪先を、もう少しだけ床に近づけた。


 近づけて、また、止まった。


 俺は短く、息を吐いた。


「詩織さん」


「……はい」


「俺たちは、家の中の、空間に固着しているものを、剪定しに来ました。剪定すると、お婆ちゃんとお母さんの動線は、それぞれの中に戻ります。それぞれの代の中に。あなたの体には、流れ込まなくなります」


「お婆ちゃんと、お母さんは、どうなりますか」


「お婆ちゃんは、八十七歳に戻ります。お母さんは、五十二歳に戻ります。今、二人は、互いの世代に向かってずれて立っている。それを、それぞれの場所に戻します」


「私は」


「あなたは、二十二歳のままです。あなたが今、爪先を床につけられないのも、声が喉で詰まるのも、家の動線に押されているからです。動線が、それぞれの代に戻れば、あなたは自分の足で立てます」


 詩織は長い時間をかけて、視線を自分の爪先に戻した。爪先は、まだ、床から数ミリ浮いていた。


「お願い、します」


 短く、彼女はそう言った。


 声は、まだ詰まっていた。けれど、彼女自身の意思を含んだ、初めての声だった。


 俺は短く頷いて、立ち上がった。


 やるしかないか、と心の中で言った。

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