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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない
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沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない③

 階段室を上がる前に、氷見が短く打ち合わせを切った。


「私と七海さんが、四〇五号室の玄関で訪問の口実を立てます。緒方さんは、廊下の手前で待機。室内に通された後、家族の同意を得てから、緒方さんに合流をお願いします」


「了解」


「七海さん、孫娘さんへの最初の声掛けは、お任せします」


「うん。任せて」


 七海はそう言って、肩から下げていた小さなトートバッグの中身を一度確認した。地域包括支援センターの臨時職員、という偽の名札らしいものが入っているのが、ちらりと見えた。氷見も同じ形式の名札を取り出して、首に下げる。二人の擬装の方針が、今日は揃っている。


 階段室の中の空気は外より一段、淀んで感じられた。海風が建物の中まで入ってこない。各階の踊り場の窓は閉じていて、廊下の照明も点いていない。土曜の午後、上の階の住人の気配がしない。


 四階に上がる手前で、俺は廊下の角に身を寄せた。氷見と七海が、四〇五号室の玄関の前まで進んで、呼び鈴を押す。


 ピン、ポン。


 短い電子音が、玄関の奥から微かに響いた。返事はない。氷見がもう一度押した。三秒の間。それでも応答はなく、奥から、廊下を歩く音が聞こえ始めた。スリッパの底が引き摺られる音だった。歩幅が、不思議に等間隔だった。


 扉がゆっくりと開いた。


「あら、はい」


 顔を出したのは、七十代後半のように見える女性だった。背筋が伸びて、髪をきっちり束ねていて、エプロン姿。声に張りがある。資料では母の多恵が五十二歳のはずだったが、目の前の女性はそれよりずっと年配に見えた。


「失礼します。地域包括支援センターから参りました、定期訪問の追加で、藤倉ふみえさんの紹介で、ご近所の方々を見回らせていただいています」


 氷見が業務的な口調を一段だけ柔らかくして、嘘の口実を流れるように述べた。「藤倉ふみえさん」の名前は、先日、商店街のアーケードの上で短く面識を持った相手だった。組織の観測網が、地域の老人ネットワークを広く抑えていることを示す細部らしかった。氷見はその細部を躊躇なく使った。


「あら、ふみえさんから。ご丁寧に」


 女性は何度か頷いて、扉を一段、奥に引いた。三和土が見えた。男物の靴は出ていない。女物の靴が三足、きっちり揃って三和土の片側に並んでいた。並びの間隔が、寸分の違いもなく等しかった。


「澤村しずさんで、いらっしゃいますか」


「はい、しずでございます。あら、母じゃなくて、わたくしを訪ねてくださったの」


「奥様、お母様もご健在で」


「ええ、お陰様で。母は奥で休んでおります。多恵──家のことを回している嫁ですね──も今、台所におります。よろしければ、お上がりくださいまし」


 俺はその場で、息を一度、止めた。


 しずは八十七歳のはずだ。資料はそう書いてあった。だが、目の前の彼女は七十代後半にしか見えない。声の張りも、背筋の伸びも、立ち居振る舞いも、八十七歳の老人のものではない。


 もう一つ、引っかかった。


 彼女は今、「母は奥で休んでおります」と言った。


 澤村家の構成で、しずより上の世代はいない。しずの母は資料には記載がない。なのに、しずは「母」と言った。




 * * *




 氷見と七海が無言で目を合わせた。半拍。氷見の側で短く判断が走り、七海の側でその判断を受け取った。


 俺は廊下の角から、身体半分を出した。


「失礼します。同行の者です」


 しずがこちらを見た。


 彼女の視線は、俺の顔を見る、というより、俺の輪郭を確認する、という当たり方だった。新しい来客に対して、最初に「家の中に入れていい人かどうか」を判定する目だった。だが、その判定の角度が、八十七歳の老人のものではなく、もっと若い、家の調整役を担い始めて十年か二十年経った中年の女性の目だった。


「あら、男の方も」


「ええ、地域包括センターの嘱託で、若い方の力仕事用です。電球の交換とか」


「まあ、それはご丁寧に。どうぞ、お上がりくださいまし」


 俺たちは靴を脱いで、上がった。三和土の靴の並びを崩さないように、空いた場所に揃えて置いた。しずが先に立って、廊下を進み始めた。


 歩幅が、等間隔だった。


 スリッパの底が、廊下の同じ位置で同じ音を立てる。一歩、半拍、一歩、半拍。リズムが完全に一定で、人間の自然な歩行のばらつきが抜け落ちていた。前に北稜の自習室で見た呼吸の同期と、似た現象が、ここでは歩幅に現れていた。


 居間に通された。


 居間の真ん中に、座卓と座布団が置かれていた。座布団は四枚。三枚は綺麗に並べられていて、四枚目だけ、座卓から少し離れた位置に、独立して置かれていた。座っていた跡があった。誰かが、ついさっきまでそこに座っていた、という凹みが、座布団の中央にある。


 しずは座卓の上座にあたる位置の座布団に、ゆっくりと座った。


「多恵、お客様よ」


 台所の方から、返事が返ってきた。


「はい、お母さん。すぐに参ります」


 声の主の方が、しずより一回り老けて聞こえた。


 俺は短く、息を吐いた。聞き間違いではなかった。台所から出てきた女性は、年齢の数字としては五十二歳だが、声と物腰は六十代後半に見えた。背中がやや丸くなり、エプロンの上から両手をぎゅっと握り合わせていて、その手の指の動きが、一定のテンポで開いて、閉じてを繰り返していた。


「いらっしゃいませ。ご丁寧に、ありがとうございます」


 多恵は廊下と居間の境目で、深く頭を下げた。下げる角度も、戻す速度も、しずの所作と同じテンポだった。


 淀みの種の輪郭が、目の前で、はっきり見えた。


 しずは、八十七歳の自分よりも、若い世代の役割を演じていた。家の調整役を担う中年女性として、立ち居振る舞いを保っている。


 多恵は、五十二歳の自分よりも、老けた世代の役割を演じていた。家の世話役を担う高齢女性として、エプロンの中で老いている。


 二人の年齢が、空間の中で、十年か十五年ずつ、互いの方向に滑っていた。


 しずが「母は奥で休んでおります」と言ったのは、聞き間違いではなく、彼女の中の世界では、しずより上に「母」がまだいる、ということだった。たぶん、彼女が最初に家の調整役を引き受けた時の世界。あの時の母──しずの実母、戦後に団地に最初に入居した世代──の役割が、しずの体の中で、まだ続いていた。


 空間が、世代を、ずらしていた。


「お孫さんは」


 俺は短く、しずと多恵の両方に向けて訊ねた。


 多恵が答えた。


「詩織は、奥の部屋で。今日は、声を、出せない日のようで」


「お会いさせていただいてもよろしいですか」


「ええ、もちろん。ただ、あの子、お話は、できないかもしれません」


「分かりました」


 七海が立ち上がった。


「ボクが先に行ってもいい? 多恵さん。ボク、お孫さんと、年が近いから」


「ええ、ええ。お願いします」


 七海が居間を出て、奥の部屋に向かう廊下に消えた。氷見はその場に残り、しずと多恵の前で正座を崩さなかった。俺は廊下と居間の境目に立ったまま、空間の流れを観察した。


 しずの座っている座布団の周囲で、空気が等間隔の脈を打っていた。多恵がエプロンを握る指のリズムと同期している。二人の動きが空間の節を作って、それが家の中央──居間と仏間の境目あたり──に積層していた。


 節の中心は、居間の奥の壁、押入れの襖の手前だった。多恵の寝室。


 俺は短く、息を吸った。これは、先日の旅館で見た関係性の閉塞と、ふみえさんの時に見た儀式の形骸化と、どちらにも似ていた。けれど、どちらでもなかった。三世代分の役割が、世代の順番をずらした形で、空間の中に重なって積まれていた。


 面倒くせえな、と心の中で言った。

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