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天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない
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沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない②

 コーヒーを飲み終えるまでの間に、現場の概要を共有された。


 沖埜台団地は、凪浦市の沿岸部、海風が直接届く高台の上にある古い公営団地で、築六十年を超える。三号棟の四階の四〇五号室。住んでいるのは、澤村しず(八十七歳)、澤村多恵(五十二歳)、澤村詩織(二十二歳)の三世代の女性。詩織の父はしずの息子で、半年前から長期入院中。家にいるのは現在、女性三人のみ。


「お婆ちゃんは元気で、お母さんも元気。家のことを回しているのは、半分はお母さん、もう半分はお婆ちゃん。お婆ちゃんは介護されてる側、ということになってるけど、実際には家事のかなりの部分を、お婆ちゃんがまだやってる」


 七海はメモを見ずに、覚えている範囲を喋った。砕けた口調のままで、情報の密度は高い。先日アーケードの上の藤倉ふみえさんを拾った観測網と同じく、地域の集まりからの拾い上げが主らしい。


「ただ、家事を回してる三人のうち、お婆ちゃんとお母さんは自分の動きに違和感を持ってない。お孫さんだけが、半年前から、自分の声で喋れない時間が増えてる、って自治会の見回りに、ぽろっと話したらしいんだ」


「自治会に話したのか」


「自治会のお婆ちゃんが、ご近所の集まりで、何気なく言ったみたい。『うちの坂上の四〇五号、最近、お孫さんの声、廊下で聞かなくなったわ』って。それを観測網が拾った」


 主語が祖母から祖母仲間に移って、また孫娘の症状に戻る。地域包括支援センターの定期訪問記録からも、似たような兆候が出ていたらしい。氷見が短く補足した。


「定期訪問の記録には、『孫娘の在室時に、母親が孫娘の代わりに応答することが増えている』『孫娘本人の発話を職員が聞き取れた回数が、半年前と比較して有意に減少』とあります」


「分析の解像度、高ェな」


「観測網と医療顧問、両方の指標が一致しました。組織側で出向く判断もありえましたが、淀みの種の物理的発現が確認されたため、こちらに回しました」


 氷見の業務口調は、店の中でも変わらない。一文字ごとに、業務上の必要性が透けている。隣で七海が、コーヒーカップの取っ手を指でつまんで、ふっと息を吐いた。


「氷見さん、それ、もう一段砕いて喋ってもいいんじゃない? タクマ君、ちょっと聞き疲れしてるよ」


「業務上の正確性を優先します」


「そういうとこ、変わらない」


 七海はもう一度、肩を揺すった。観察者の温度が、軽く茶化す方向で外に出ている。氷見はそれに反応せず、視線を俺の方に戻した。


「現場では、私が祖母・母への対応、七海さんが孫への対応、を担当します。緒方さんは剪定の段で、空間に固着した動線の節を扱うことになります」


「分担、決まってんのか」


「七海さんとの事前の話し合いで、決めました」


「ボクはお孫さんとは初対面なんだけどね。氷見さんが、お婆ちゃんとお母さんは女性二人で出向いた方が警戒されにくい、って言ってたから」


「合理的判断です」


 俺はコーヒーを一口、飲み込んだ。




 * * *




 タクシーで沖埜台団地に向かった。


 琴生市から凪浦市までは、市境を越えて十五分ほどの距離だが、運転を組織のドライバーが担当した。氷見の隣に七海、後部座席に俺と、運転席のドライバー。氷見は助手席で、ドライバーと最低限の業務的なやり取りだけをした。経路、所要時間、現場到着後の動線。それが終わると、氷見は窓の外に視線を向けて、それきり言葉を切った。


 後部座席の俺の隣で、七海が両足を交互に小さく前後に振っていた。座席の上で踵が浮いている。中性的な輪郭の中の、子どもっぽい部分が、こういうところで出る。


「タクマ君」


「ああ」


「氷見さん、車の中で運転手さんと業務以外の話、するの聞いたこと、ない」


「ない」


「ボクも、ない。たぶん、ドライバーさんは氷見さんと違う組織所属で、氷見さんの中では『業務上の協力者だが私的接触の対象ではない』カテゴリに入ってる」


「お前、それ、氷見の前で言うなよ」


「言わないよ。ボク、空気は読めるんだ」


 七海は前を向いたまま、ふふ、と笑った。


 助手席の氷見はこちらの会話を聞いていたはずだったが、振り返りもしなかった。聞いていないことにする、というのではなく、聞いてはいるが業務上の対応を要しない、という処理を一瞬でしている。マスターの「聞こえていないことにする」流儀とは、似て非なる対応だった。マスターは民間の老人で、氷見は天眼の瞳。同じ静けさでも、根が違う。


 車窓の外、市街地が郊外に変わっていく。凪浦市の沿岸部は、琴生からだと山を一つ越える。山を越えると、塩を含んだ風の匂いが車内に薄く入ってくる。


 団地の手前の坂道を、車がゆっくり登り始めた。


 坂を登るにつれて、海風の匂いが濃くなった。沖埜台団地は、坂の上の高台にある。海から直接吹き上げてくる風が団地の建物の間を抜けて、内陸側に流れていく地形だった。


「タクマ君、見えてきたよ」


 七海が窓の外を指した。


 団地の三号棟が五階建ての箱型の建物として、坂の上に並んでいる。同じ形の棟が四つ、東西に並んでいた。築六十年を超えた建物の壁面は白い塗装が薄く灰色がかり、ところどころに苔の薄い染みがある。各階のベランダに、洗濯物が干してあるのは下の階だけで、四階より上の階のベランダは洗濯物が出ていない。住んでいる人の数の偏りが、ベランダの様子で分かった。


 ドライバーが団地の入り口の駐車スペースに車を止めた。氷見が短く礼を言って、降りた。続いて俺と七海が降りる。坂の上の風が、さっきまで車内で感じていたよりも一段、強い。海風が、団地の建物の谷間を抜けて、肩に当たる。


 俺はその風の流れを意識した。


 風はある。風の方向もある。だが、団地の建物の谷間を抜けるはずの風が、三号棟の四階のあたりで、一度、止まっていた。視覚的には何も変わらない。だが、肌で感じる風の流れが四〇五号室のベランダの位置で、わずかにせき止められていた。




「氷見」


「気付かれましたか」


「四階、風が止まってる」


「私も、車から降りた瞬間に、確認しました。空間の固着は既に始まっています。当初の観測より、一段進んでいる可能性があります」


 氷見はそう言って、肩から下げていた小さなビジネスバッグの中から、薄い書類を一枚取り出した。事前の家屋配置図らしかった。三号棟の四〇五号室は、四階の南東角部屋。3DK、玄関を入って右手に台所、左手に廊下、廊下の奥に居間、居間の隣に祖母の部屋、その奥に詩織の部屋、母は居間の押入れを使った半個室を寝室にしている、と図面の脇に書き込みがあった。


「お母さん、押入れで寝てるのか」


「祖母の部屋を譲り、孫の独立部屋を確保した結果、自分の寝室がなくなった、という経緯です。三十年前、母が嫁いできた時の選択。本人は今も、押入れの寝室について不満を口にしていません」


「うわ、それ、母の代の『自分を消す型』の最初じゃない?」と七海。


「観察としては妥当です。ただし、本人の自覚と一致するかは別問題です」


「氷見さん、相変わらず、ドライ」


「業務上の必要性です」


 俺は団地の入り口の方を見上げた。


 沖埜台団地三号棟。一階の郵便受けの並びの前に、自治会の見回り表が貼ってあった。ガラス枠の中の手書きの表に、各階の住人の名前と、最終訪問日が書き込まれていた。四〇五号、澤村、最終訪問日、三日前。担当者名の脇に、小さく「孫娘応答なし、母応答」と書き加えられていた。


 観測網の解像度は確かに高かった。地域の見回り、医療顧問、自治会、複数の指標が同じ部屋を指している。それらが指す先で、孫が、自分の足で歩いていない。


 ああ、これは想定より重い方だ、と俺は思った。

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