沖埜台団地の四階には三人分の足音しかない①
大学の午後の講義をひとつ抜け出して、いつもの喫茶店に戻る道の途中で、見覚えのある二人組が喫茶店の入り口に並んで立っていた。
ひとりは黒髪の真っ直ぐなロング、もうひとりは明るい色のセミロング。背の高い方と、低い方。背筋の伸びた方と、ベンチに浅く座った方。氷見透華と、七海昴。二人が並んで立っているのを見るのは、初めて見る光景だった。
俺は店の手前で歩く速度を落とした。
「珍しいな」
「珍しいですね」と、氷見が短く返した。
「珍しいよね」と、七海が後を引き取って笑った。
二人の声が重ならない。氷見の声が先に終わり、半拍の間を置いて、七海の声が始まる。並んでも、リズムが揃わない。それぞれが、それぞれの拍で動いている。
「中、入れよ。マスターが見てる」
「いいの?」
「業務上、必要な場合のみ把握するよう、努めています」
氷見の業務的な返事に、七海が肩を揺すった。
「氷見さん、それ、お店の中での建前でしょ。ボク、知ってるよ」
「業務口調を保つことは、建前ではなく方針です」
「ね、タクマ君。氷見さん、ああいうとこ、変わらないよね」
俺は店の扉を引きながら、七海の方は見ずに答えた。
「俺に振るな」
「うわあ、容赦ない」
扉が閉まる前に、低い鈴の音が二回、続いて鳴った。氷見と七海の二人分の入店が、鈴の音にも分かれて出た。
マスターはカウンターの内側で、コーヒー豆の計量をしていた。秤の針が動くのを見届けてから、目だけをこちらに向けた。
「お帰り」
「マスター、客二人です」
「はい」
短い返事の中に、二人連れに対する驚きの色は乗っていなかった。マスターは事情を察しているのか、察した上で訊かないのか、毎度判別がつかない。今日も、その流儀のまま、コーヒーの注文を待つ姿勢に戻った。
氷見は窓際から二つ目の四人席を選んで、座る前に椅子の位置を半歩だけ引いた。きっちり半歩。座ってから、姿勢を整える必要が出ない位置まで、最初から計算して引いた。背筋を伸ばし、両手を膝に揃えて座った。
七海は氷見の対面ではなく、横に並んで座った。座る瞬間に椅子を引かない。座ってから、座面の上で一度だけ尻を浮かせて位置を直した。氷見の隣に身体半分を寄せたあと、半分だけまた離した。寄りすぎず、離れすぎず、業務上の同僚としての距離を、座ってから細かく調整するタイプの座り方だった。
「タクマ君、こっちこっち」
俺は氷見の対面の席に座った。七海の正面ではなく、氷見の正面。これは無意識の選択だったが、選んだ後で「こうなるな」と思った。氷見は俺の顔を真っ直ぐ見ても問題のない相手で、七海は真っ直ぐ見ようとすると擬装の精度を確かめる側に回ってしまう。氷見の正面の方が、業務の話を進めるには楽だ。
「氷見、案件は」
「七海さんから先にお話しします」
氷見はそう言って、隣の七海の方に視線だけを送った。視線を送られた七海は両肘をテーブルに預けて、わずかに身を乗り出した。俺の方に。
「凪浦の沖埜台団地、三号棟の四階。あの一室、四人住んでるのに、三人分の動きしかないんだ」
七海の声は砕けた口調のままで、けれど内側の温度が一段だけ低くなった。依頼提示の一言として、十分すぎる気配があった。
「四人住んでて、三人分の動き」
「うん。お婆ちゃんと、お母さんと、孫娘さん。三人とも女性。それから、孫娘さんの旦那さんではなく、お父さん。あ、お父さんは長期入院中で、家にはいない。だから現在、家にいるのは三人なんだけど」
「四人分じゃなくて、三人分の動き、というのは」
「孫娘さんが、自分の足で歩いていないんだよ」
俺は短く息を吐いた。
氷見が隣で口を開いた。
「孫の代に当たる方の動線が、祖母・母の動線をなぞっています。観測網が地域包括支援センターと自治会の見回り経由で兆候を拾い、七海さんが確認に向かったところ、想定より進行段階が後ろの位置にあることが判明しました。私の判定領域に踏み込んでいるため、共有を受けて参りました」
「顕在化案件、なのか」
「顕在と潜在の境目です。祖母と母は、自分の動線に違和感を持っていません。違和感を持っているのは、孫の代の方だけ。判定に二人の領域を要するため、二人で来ました」
「なるほど」
俺は窓の外を見た。商店街のアーケードの屋根の隙間から、北の空が細く覗いている。秋の薄い空に、月よりやや小さい白い円が、いつもどおり動かずにそこにあった。
淀みの種の抽象軸は、たぶん、世代間の継承だ。具象軸は、動線の継承。誰も悪意を持って継いだわけではない、誠実な家事の積み重ねが、空間に節を作っている。前にアーケードで会ったふみえさんの九分間と似ているが、規模が一段違う。三世代分。
「面倒くせえな」
「タクマ君、容赦ない」と七海。
「一個だけ確認していいか」
「どうぞ」と氷見。
「孫娘さんは、家を出たいと、思ってるのか」
氷見と七海が顔を見合わせた。半拍だけ。視線が交わった瞬間、二人の判断が一致しているかどうか、互いに確かめた。それから、ほぼ同時に、それぞれの言い方で返した。
「思っています」と氷見。
「思ってる」と七海。
言葉が完全には重ならず、半拍ずれて重なった。重なったのは語尾の方だった。
俺はマスターの方に目で合図を送った。
「マスター、コーヒー三つ。氷で薄めないやつ」
「はい」
短い返事だけが返ってきた。
今日も、面倒くさい仕事が、雨の代わりに二人連れで降ってきた。けれど、降ってきたものは片付ける。それが俺の役回りだ。北の空の白い円は、相変わらず動かない。今日も俺たちが何をしようと、明日も同じ場所で同じ向きを向いている。
行くか、と俺は短く呟いた。三つのコーヒーが、湯気を立て始めた。




