奥槙荘の階段には増えてはならない段がある⑦
喫茶店の前まで戻ってきた時、ちょうど閉店の片付けが始まる時間だった。
俺は車の助手席から降りた。氷見は運転席に残ったままだった。紗代は今夜のうちに、組織の協力施設で受け入れの手続きを進めることになっていた。氷見はそのまま施設まで送り届ける。
「氷見」
「はい」
「あんた、運転、まだ慣れてないだろ」
「慣れています」
「気をつけてな」
氷見は短く頷いてから、視線を一拍だけ俺の方に置いた。
「緒方さんも、お疲れ様でした」
いつもの定型句だった。ただ、語尾の一拍が、今日はわずかに長かった。
俺はそれだけ受け取って、車から離れた。
氷見の車は静かに発進して、坂の下の方に消えていった。
喫茶店のドアを押した。
ベルの音が、いつもより少しだけ、低く聞こえた。気のせいかもしれない。マスターはカウンターの中で、最後のグラスを拭いている途中だった。常連の老人の席は既に空いていて、文庫本の置き忘れもない。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
マスターは手を止めずに、いつもの応答を返した。
俺はカウンターの中に入って、エプロンを取った。
「閉店までの間、何か手伝います?」
「いえ、もう片付けは済みました。緒方さん、コーヒー、いかがですか」
マスターはそう言って、フィルターを一枚、取り出した。
「いただきます」
俺はカウンターの内側ではなく、客側のスツールに腰を下ろした。
マスターは新しいフィルターをドリッパーにセットして、豆を挽き始めた。挽く音が、店内の静けさの中で、いつもより少しだけ長く聞こえた。
お湯が落ちていく音を聞きながら、俺は今日の家のことを、頭の中で整理した。
家を、解いてやってください。
富江にそう言った時、富江は俺の方を見なかった。あの頷きとも、頷きでないとも取れる頭の動きが、今日の夜の富江と貞次の間で、何かに変わるのか、変わらないのかは、俺には分からない。
ただ、紗代は、家を出た。
奥山紗代という名前を、これから外の世界で使い始める。
仏壇の方角に深く一礼した時の、紗代の背中の角度を、俺は覚えている。位牌があるとは限らない仏壇に向かって、紗代は姉のことをちゃんと毎日念じていた。十二年間、家族の誰よりも姉のことを、念じ続けていた。それは、家を保つための念じ方とは、別の種類の念じ方だったはずだ。
あの念じ方の続きを、紗代は、外で続けることになる。
俺はそれだけを、頭の中に残した。
マスターの淹れたコーヒーが、目の前に置かれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺はカップを口元に運んだ。
最初の一口で、舌の上の温度が、今日の家の中の空気の重さを、洗っていった。
二口目で、コーヒーの香りが、紗代の背中の角度を、頭の奥の方に静かに収めていった。
三口目で俺は、今日の仕事が終わったことを認めた。
「今日は、長かったですか」
マスターが、グラスを拭く手を止めずに、訊いてきた。
「そうでもないです」
俺は窓の外の北の空を見た。
常連の老人がいた窓際の席の、その向こうの夜空に、月よりも小さい光がいつものように動かずに点いていた。
「ただ、十二年、というのが、長いか短いかは、人によるんでしょうね」
「そうですね」
マスターは短く返した。
マスターの口調は、軽重を判定する声ではなかった。長さを長さとして、ただ受け取る声だった。前にも、似た会話をマスターと交わした覚えがある。あの時もマスターは、長さを長さとして受け取って、それ以上のことは言わなかった。
俺はカップを置いて、マスターの方に頭を下げた。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
マスターは布巾を畳んで、カウンターの上に置いた。
北の空の光は、いつものように、点いていた。
明日も、たぶん、この一日の続きが、店の前を流れていくのだろう。流れていく中で、紗代という名前が、どこかの役所の窓口で、本人の口から発音される。それだけが、今日の俺の仕事の、確かな結果として残る。
あとは、コーヒーが冷めるまでに、帰ってきた。
それでいい。




