奥槙荘の階段には増えてはならない段がある⑥
俺は紗代に、振り返らずに歩くように言った。
紗代は俺の背中の側で、自分の手で口を覆ったまま、一度だけ頷いた。
「氷見、先に階段の方へ」
「了解しました」
氷見は薄い金属板を懐に戻して、廊下の方へ先に立った。
俺は紗代の手を取って、襖の方へ向かった。雅志は自分の手のひらをまだ見ていた。何が起きたかは、本人にも整理できていないらしい。貞次は廊下の奥に立ったまま、富江の肩から手を離さずにいた。富江は涙を一筋だけ流した顔のまま、視線を畳の方に落としていた。
俺は襖の前で、一度だけ振り返った。
「奥山富江さん」
「……はい」
「あんたが、紗代さんを縛ってたのは、悪意じゃない。家を保つために、十二年、努力してきた結果だ」
「……」
「ただ、紗代さんは、あんたの努力の続きをもう続けられない。それは、紗代さんの問題じゃなくて、家の方の問題だ。家を解いてやってください」
富江は俺の方を見なかった。
ただ、頷きとも、頷きでないとも取れる、頭の動きが、一度だけあった。
俺はそれ以上は何も言わずに、襖を抜けた。
階段は、現役時代の段数に戻っていた。
俺は数えなかったが、上りの時の感覚と、下りの時の感覚が違うのが分かった。一段の高さも、踏み板の幅も、急であることも変わらないのに、段の総数だけが、本来の数に戻っている。氷見が一段先を、迷いなく下りていった。
玄関の三和土に着いた。
俺は紗代の靴を、上がり框から取って、紗代の前に揃えて置いた。
紗代は黙って、自分で履いた。
履き終わってから、紗代は一度だけ、奥の襖の方を見た。襖の向こうの六畳の和室の方ではない。その奥の、もう一つ向こうの部屋の方だった。
仏壇のある部屋らしい、と俺は察した。
仏壇には、誰も写っていない位牌が置かれているのだろう。失踪した姉、奥山千里。
紗代は仏壇の方角に、深く一礼してから、玄関の引き戸の方に向き直った。
「行きます」
声は小さかったが、迷いはなかった。
氷見が引き戸を開けた。
戸は、何の抵抗もなく、横に滑った。
外は、すっかり暗くなっていた。
集落の街灯が、二、三本おきに、点いたり消えたりしている。山際の冷えた空気が、玄関の三和土に流れ込んできた。紗代は深呼吸を一つしてから、外に出た。
俺と氷見もそれに続いた。
黒い乗用車の助手席に、氷見が紗代を案内した。紗代は車の中で、シートベルトの位置をしばらく確認してから、ようやく自分で締めた。何年も車に乗っていなかった人間の手つきだった。
俺は車の脇に立って、もう一度、奥槙荘の建物を見上げた。
二階の窓のカーテンの隙間から、富江と貞次の影が並んでいるのが見えた。二人は引き止めようとはしていなかった。ただ、立って、こちらを見ていた。
俺は建物に向かって、軽く頭を下げた。
頭を下げてから、車の後部座席に乗り込んだ。
「氷見」
「はい」
「保健福祉の方の手配は」
「整っています。本日は組織の協力施設で一晩、明日からは公的なシェルターに移送します。医療顧問が今夜のうちに紗代さんの健康状態を確認する予定です」
「了解」
車は坂道を下り始めた。
走り出してしばらくしてから、紗代が口を開いた。
「あの」
「はい」
「お名前を、お伺いしてもよろしいですか」
俺は窓の外の街灯の流れを見ていた。
名乗るかどうか、一瞬だけ迷った。
いや、迷うほどのことじゃない。今回は、名乗らない。
「氷見透華と、申します」
氷見が運転席から、紗代に名乗った。
「本日の手配を担当した者です。今後の保健福祉の手続きでも、私が窓口になります」
「ありがとうございます」
紗代は氷見にお辞儀をしてから、もう一度、振り返って俺の方を見た。
「そちらの、男性の方は」
「俺は付き添いだ」
俺はそれだけ返した。
「お名前は」
「名乗らなくていい。俺はこれから先、あんたの人生に、出てこない方がいい」
「……」
紗代は黙った。
俺は窓の外を見たまま、続けた。
「あんたは、奥山紗代だ」
「……はい」
「奥山、紗代。これから外で生きていく時に、名乗る名前はそれだ。婿の家の籍を抜いても抜かなくても、あんたが奥山紗代だってことは、変わらない」
「……はい」
「あんたが、自分の名前を自分のために使えるようになったら、それでいい。俺の名前は、その時に、思い出さない方がいい」
紗代は何も返さなかった。
ただ、しばらく経ってから、ゆっくりと、頷いたのが、後部座席からも分かった。
車は、山際の坂道を下り切って、旧温泉郷の出口に差し掛かった。




