表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥槙荘の階段には増えてはならない段がある
PR
34/58

奥槙荘の階段には増えてはならない段がある⑥

 俺は紗代に、振り返らずに歩くように言った。


 紗代は俺の背中の側で、自分の手で口を覆ったまま、一度だけ頷いた。


「氷見、先に階段の方へ」


「了解しました」


 氷見は薄い金属板を懐に戻して、廊下の方へ先に立った。


 俺は紗代の手を取って、襖の方へ向かった。雅志は自分の手のひらをまだ見ていた。何が起きたかは、本人にも整理できていないらしい。貞次は廊下の奥に立ったまま、富江の肩から手を離さずにいた。富江は涙を一筋だけ流した顔のまま、視線を畳の方に落としていた。


 俺は襖の前で、一度だけ振り返った。


「奥山富江さん」


「……はい」


「あんたが、紗代さんを縛ってたのは、悪意じゃない。家を保つために、十二年、努力してきた結果だ」


「……」


「ただ、紗代さんは、あんたの努力の続きをもう続けられない。それは、紗代さんの問題じゃなくて、家の方の問題だ。家を解いてやってください」


 富江は俺の方を見なかった。


 ただ、頷きとも、頷きでないとも取れる、頭の動きが、一度だけあった。


 俺はそれ以上は何も言わずに、襖を抜けた。




 階段は、現役時代の段数に戻っていた。


 俺は数えなかったが、上りの時の感覚と、下りの時の感覚が違うのが分かった。一段の高さも、踏み板の幅も、急であることも変わらないのに、段の総数だけが、本来の数に戻っている。氷見が一段先を、迷いなく下りていった。


 玄関の三和土に着いた。


 俺は紗代の靴を、上がり框から取って、紗代の前に揃えて置いた。


 紗代は黙って、自分で履いた。


 履き終わってから、紗代は一度だけ、奥の襖の方を見た。襖の向こうの六畳の和室の方ではない。その奥の、もう一つ向こうの部屋の方だった。


 仏壇のある部屋らしい、と俺は察した。


 仏壇には、誰も写っていない位牌が置かれているのだろう。失踪した姉、奥山千里。


 紗代は仏壇の方角に、深く一礼してから、玄関の引き戸の方に向き直った。


「行きます」


 声は小さかったが、迷いはなかった。


 氷見が引き戸を開けた。


 戸は、何の抵抗もなく、横に滑った。




 外は、すっかり暗くなっていた。


 集落の街灯が、二、三本おきに、点いたり消えたりしている。山際の冷えた空気が、玄関の三和土に流れ込んできた。紗代は深呼吸を一つしてから、外に出た。


 俺と氷見もそれに続いた。


 黒い乗用車の助手席に、氷見が紗代を案内した。紗代は車の中で、シートベルトの位置をしばらく確認してから、ようやく自分で締めた。何年も車に乗っていなかった人間の手つきだった。


 俺は車の脇に立って、もう一度、奥槙荘の建物を見上げた。


 二階の窓のカーテンの隙間から、富江と貞次の影が並んでいるのが見えた。二人は引き止めようとはしていなかった。ただ、立って、こちらを見ていた。


 俺は建物に向かって、軽く頭を下げた。


 頭を下げてから、車の後部座席に乗り込んだ。


「氷見」


「はい」


「保健福祉の方の手配は」


「整っています。本日は組織の協力施設で一晩、明日からは公的なシェルターに移送します。医療顧問が今夜のうちに紗代さんの健康状態を確認する予定です」


「了解」


 車は坂道を下り始めた。




 走り出してしばらくしてから、紗代が口を開いた。


「あの」


「はい」


「お名前を、お伺いしてもよろしいですか」


 俺は窓の外の街灯の流れを見ていた。


 名乗るかどうか、一瞬だけ迷った。


 いや、迷うほどのことじゃない。今回は、名乗らない。


「氷見透華と、申します」


 氷見が運転席から、紗代に名乗った。


「本日の手配を担当した者です。今後の保健福祉の手続きでも、私が窓口になります」


「ありがとうございます」


 紗代は氷見にお辞儀をしてから、もう一度、振り返って俺の方を見た。


「そちらの、男性の方は」


「俺は付き添いだ」


 俺はそれだけ返した。


「お名前は」


「名乗らなくていい。俺はこれから先、あんたの人生に、出てこない方がいい」


「……」


 紗代は黙った。


 俺は窓の外を見たまま、続けた。


「あんたは、奥山紗代だ」


「……はい」


「奥山、紗代。これから外で生きていく時に、名乗る名前はそれだ。婿の家の籍を抜いても抜かなくても、あんたが奥山紗代だってことは、変わらない」


「……はい」


「あんたが、自分の名前を自分のために使えるようになったら、それでいい。俺の名前は、その時に、思い出さない方がいい」


 紗代は何も返さなかった。


 ただ、しばらく経ってから、ゆっくりと、頷いたのが、後部座席からも分かった。


 車は、山際の坂道を下り切って、旧温泉郷の出口に差し掛かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ