奥槙荘の階段には増えてはならない段がある⑤
俺は紗代を後ろ手にかばう位置に立った。
部屋の空気の中の節が、見えるわけではない。ただ、視界の縁の方で、空気の屈折率が場所によって違う。畳の縁の線が、本来の直線ではなく、僅かに弧を描いている。襖の上の桟が、奥に向かって遠ざかっているように見える。
部屋全体が、紗代を「内側」に閉じ込める形に、空間を歪ませている。
「氷見」
「はい」
「家族の身体には、触れずに済ませる。場の方を、解す」
「了解しました」
氷見は雅志と貞次の間に立って、二人の動線を遮る位置に身体を置いた。氷見の手元に、いつの間にか、薄い金属の板のようなものが握られている。組織が支給している後方支援の道具らしいが、用途は俺には説明されていない。たぶん、家族の身体的危害を抑止する用途のもの。
雅志は自分の手のひらを見たまま、まだ動かなかった。
貞次は俺たちを見ても、表情を動かさなかった。
俺は紗代の手を一度握り直してから、目を閉じた。
空間に染みついた節を、内側から、構造ごと、緩める。
今までの剪定とは少し違う構造の場だった。これは、誰かが強く誰かを縛っている形ではない。家族全員の意思が、それぞれ別の方向を向きながら、合計として「この家を保つ」方向に揃ってしまっている。意思の総和が、空間に圧として乗っている。
その総和を、解す。
ばらすのではなく、解す。家族関係を壊すのではなく、空間に乗っている圧を、それぞれの個人の中に戻す。
俺は息を吸って、詠唱を始めた。
「ここに在る力に告ぐ
方向を持つ全ての流れに告ぐ
この家に積もった、四つの意思の総和よ
空間に乗った、見えない束よ
お前の境界を、お前を構成する一人一人の中に、戻せ
ここに在る『家を保つ』という言葉を
俺が、四つに分けて、それぞれの胸に、収め直す」
部屋の空気が、ゆっくり動き始めた。
畳の縁の弧が、直線に戻った。襖の上の桟の遠近が、本来の長さに戻った。視界の縁の歪みが、薄れていく。
空間に乗っていた圧が、四つに分かれて、それぞれの方向に流れ出した。
雅志の方に流れた分は、雅志の身体の中に静かに収まった。
貞次の方に流れた分は、貞次の身体の中に、ほとんど抵抗なく吸い込まれた。
富江の方に流れた分は──
ここで、流れが止まった。
廊下の奥で、富江が立っていた。
襖の隙間から、こちらを見ていた。
富江の体が、流れを受け取らなかった。受け取らないように、身体の表面で押し戻していた。
「紗代を、連れていかせはしない」
声には、女将の柔らかさはなかった。
代わりに、家長の声があった。
富江の身体の周囲で、空間に乗っていた圧の四分の一が、行き場をなくして集まり始めた。集まった圧は、富江の意思に従って、紗代の方に向き直った。
「来る」
俺は短く言った。
集まった圧は、玄関の方向にではなく、紗代の身体に向かって、まっすぐ突進してきた。直撃すれば、紗代の身体の中に「家にいなければならない」という強迫が、強い形で植え付けられる。詠唱で解いた節が、富江の意思によって、紗代一人の中に再構築される動きだった。
俺は紗代の腕を引いて、自分の背中の側に回した。
指先で空気を弾いた。
集まった圧の進行方向を、九十度ねじった。
圧は、紗代の身体の前を九十度ずれた方向に流れていった。流れていった先で、行き場をなくしたまま、空中で渦巻いた。
ここで放置すると、渦は遠からず、別の対象を探して再び動き始める。富江の身体の中に押し戻すのが筋だが、富江の身体の表面はまだ受け取りを拒否している。
俺は二度目の詠唱に入る息を吸った。
その時、廊下の奥から貞次が、富江の肩に手を置いた。
富江の体がぴくりと動いた。
「もういい」
貞次の声だった。
「もう、いい。富江、紗代は、出してやれ」
貞次の口調は、相変わらず抑揚が薄かった。ただ、抑揚の薄いまま、十二年振りに何かを言葉に出した、という響きがあった。
富江は夫の方を、ゆっくり見た。
富江の身体の表面の拒否が一段緩んだ。
行き場をなくしていた渦が、富江の身体の中に、ゆっくり吸い込まれていった。吸い込まれた瞬間、富江の目から、涙が一筋、頬を伝った。
部屋の空気から、節の感触が消えた。
俺は息を一つ、吐いた。
「氷見、終わった」
「確認しました。場の節、消失しています」
氷見はそれだけ返した。
紗代は俺の背中の側で、自分の手で自分の口を覆っていた。泣いてはいなかった。ただ、十二年分の何かを、口の中で噛み殺している顔だった。




