表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天眼の手は、コーヒーが冷めるまでに帰る  作者: 七宵 凪
奥槙荘の階段には増えてはならない段がある
PR
33/60

奥槙荘の階段には増えてはならない段がある⑤

 俺は紗代を後ろ手にかばう位置に立った。


 部屋の空気の中の節が、見えるわけではない。ただ、視界の縁の方で、空気の屈折率が場所によって違う。畳の縁の線が、本来の直線ではなく、僅かに弧を描いている。襖の上の桟が、奥に向かって遠ざかっているように見える。


 部屋全体が、紗代を「内側」に閉じ込める形に、空間を歪ませている。


「氷見」


「はい」


「家族の身体には、触れずに済ませる。場の方を、解す」


「了解しました」


 氷見は雅志と貞次の間に立って、二人の動線を遮る位置に身体を置いた。氷見の手元に、いつの間にか、薄い金属の板のようなものが握られている。組織が支給している後方支援の道具らしいが、用途は俺には説明されていない。たぶん、家族の身体的危害を抑止する用途のもの。


 雅志は自分の手のひらを見たまま、まだ動かなかった。


 貞次は俺たちを見ても、表情を動かさなかった。


 俺は紗代の手を一度握り直してから、目を閉じた。


 空間に染みついた節を、内側から、構造ごと、緩める。


 今までの剪定とは少し違う構造の場だった。これは、誰かが強く誰かを縛っている形ではない。家族全員の意思が、それぞれ別の方向を向きながら、合計として「この家を保つ」方向に揃ってしまっている。意思の総和が、空間に圧として乗っている。


 その総和を、解す。


 ばらすのではなく、解す。家族関係を壊すのではなく、空間に乗っている圧を、それぞれの個人の中に戻す。


 俺は息を吸って、詠唱を始めた。




「ここに在る力に告ぐ


 方向を持つ全ての流れに告ぐ


 この家に積もった、四つの意思の総和よ


 空間に乗った、見えない束よ


 お前の境界を、お前を構成する一人一人の中に、戻せ


 ここに在る『家を保つ』という言葉を


 俺が、四つに分けて、それぞれの胸に、収め直す」




 部屋の空気が、ゆっくり動き始めた。


 畳の縁の弧が、直線に戻った。襖の上の桟の遠近が、本来の長さに戻った。視界の縁の歪みが、薄れていく。


 空間に乗っていた圧が、四つに分かれて、それぞれの方向に流れ出した。


 雅志の方に流れた分は、雅志の身体の中に静かに収まった。


 貞次の方に流れた分は、貞次の身体の中に、ほとんど抵抗なく吸い込まれた。


 富江の方に流れた分は──


 ここで、流れが止まった。




 廊下の奥で、富江が立っていた。


 襖の隙間から、こちらを見ていた。


 富江の体が、流れを受け取らなかった。受け取らないように、身体の表面で押し戻していた。


「紗代を、連れていかせはしない」


 声には、女将の柔らかさはなかった。


 代わりに、家長の声があった。


 富江の身体の周囲で、空間に乗っていた圧の四分の一が、行き場をなくして集まり始めた。集まった圧は、富江の意思に従って、紗代の方に向き直った。


「来る」


 俺は短く言った。


 集まった圧は、玄関の方向にではなく、紗代の身体に向かって、まっすぐ突進してきた。直撃すれば、紗代の身体の中に「家にいなければならない」という強迫が、強い形で植え付けられる。詠唱で解いた節が、富江の意思によって、紗代一人の中に再構築される動きだった。


 俺は紗代の腕を引いて、自分の背中の側に回した。


 指先で空気を弾いた。


 集まった圧の進行方向を、九十度ねじった。


 圧は、紗代の身体の前を九十度ずれた方向に流れていった。流れていった先で、行き場をなくしたまま、空中で渦巻いた。


 ここで放置すると、渦は遠からず、別の対象を探して再び動き始める。富江の身体の中に押し戻すのが筋だが、富江の身体の表面はまだ受け取りを拒否している。


 俺は二度目の詠唱に入る息を吸った。


 その時、廊下の奥から貞次が、富江の肩に手を置いた。


 富江の体がぴくりと動いた。


「もういい」


 貞次の声だった。


「もう、いい。富江、紗代は、出してやれ」


 貞次の口調は、相変わらず抑揚が薄かった。ただ、抑揚の薄いまま、十二年振りに何かを言葉に出した、という響きがあった。


 富江は夫の方を、ゆっくり見た。


 富江の身体の表面の拒否が一段緩んだ。


 行き場をなくしていた渦が、富江の身体の中に、ゆっくり吸い込まれていった。吸い込まれた瞬間、富江の目から、涙が一筋、頬を伝った。


 部屋の空気から、節の感触が消えた。


 俺は息を一つ、吐いた。


「氷見、終わった」


「確認しました。場の節、消失しています」


 氷見はそれだけ返した。


 紗代は俺の背中の側で、自分の手で自分の口を覆っていた。泣いてはいなかった。ただ、十二年分の何かを、口の中で噛み殺している顔だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ